荻上チキ「一夫二妻生活疲れた。元の鞘に戻りたい」気鋭の論客『男の身勝手』

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高島礼子「極道の妻たち」地でいく肝の座りっぷり!覚醒剤問題でも堂々の対応

   夫の覚醒剤所持でメディア対応した高島礼子の評判がいい。気丈に振る舞い、自ら尿検査を受けて潔白を証明してみせるなど、映画「極道の妻たち」を地でいく肝の据わりっぷりが、視聴者だけでなく記者たちをも唸らせているのである。

   そんな土性っ骨はどうしてできたのか。週刊文春によると、彼女の父親は大学で英語などを教える厳格な教育者だったが、高島は県立高校時代、母親に買ってもらったバイクで夜中走り回りるほどのクルマ好きだったという。高校卒業後に日産の子会社に入り、総務部総務課で保険業務を担当していたというから意外である。

   週末は女性だけで原付に乗って箱根を爆走したり、当時は芸能界に進む気は毛頭なく、「夢はレーサー。でもタクシーかトラックの運転手になれればいい」といっていたそうだ。

   クルマを乗りつぶして金欠になり、レースクィーンの一般公募を受けてみた。23歳という遅咲きながら、彼女の美貌は瞬く間に周囲の耳目を集めて、88年には「とらばーゆ」のCMに抜擢。そのCMが俳優・松平健の目にとまり、東映京都撮影所に招かれた。ただ、松平にも媚びを売らず、ようやく「極道の妻たち」のヒロインに抜擢されたのは99年のことだ。

<「当時、高島君の起用は東映社内でも大きな賭けでした。でも、蓋を開けたら大ヒット。当時の岡田茂会長は『この子はスターになる』と手放しで喜んだ」(同シリーズを手がけた関本郁夫監督)>

   彼女には18歳から交際していた地元の先輩がいたというが、お互いのタイミングが合わず成就しなかった。20代後半には現在服役中の元タレント・羽賀研二と深い仲になっていたという。そして高知と出会い、99年に結婚するのだ。

   女優としても、恋愛関係も決して順調ではなかったようだ。そうした人生が彼女を磨き、今回のような見事な対応をとることができたのかもしれない。

   これからの高島の演技が楽しみだ。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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