マグニチュード7・3に直撃された熊本・南阿蘇村は壊滅状態だ。250か所で土砂崩れが起き、熊本に通ずる阿蘇大橋が崩落、主要道路も寸断されて孤立した。NHKの取材班は17日(2016年4月)に大分から5時間をかけて村に入り、孤立した姿を記録した。
村の中心にある福祉センターに住民200人以上が避難していたが、ストレスと疲れで体調を崩す人が出ていた。別の福祉施設では60人の高齢者がいたが、ここでは食べ物が不足していた。オムツも水も足らない。上空を飛ぶヘリに向けて、シーツに「た」「べ」「も」「の」と大書して 救いを求めた。
福島県の施設から電話で支援の申し出があったが、熊本への交通が途絶していて、大分か宮崎まで受け取りに行かないといけない。人手もガソリンもない。泣く泣く断った。そのとき、SOSに応えて宮崎の介護用品の会社が直接トラックでオムツを届けてくれた。「ありがとう」「天の恵み」。トラックは次の施設を目指して去って行った。
支援の申し出あっても受け取りに行けない
この時点で死者は8人だった。警察と消防、自衛隊が行方不明者の捜索を行っていた。彼らは大きく迂回して村に入っていた。阿蘇大橋の復旧は望むべくもないが、村から北へ通ずる道路を通せれば迂回は1時間短縮できる。村の建設課は「2日で復旧」を目指した。
18日、村役場に食料や水が届き始めた。ところが、物資の管理と10か所の避難所へ効率よく分配ができない。村の人口は1万1000人、村職員は160人いるが、1人で何役もこなしている。多くは自らも被災者だ。一番多い500人が避難していた南阿蘇中学校の運営を任されたのは、普段は届出業務を担当している児玉みどりさんだった。「指示する人もいないけど、精一杯やるしかない」
19日、バス停の待合所を避難場所にしている人たちがいた。近くの主婦がわずかに残った食材で炊き出しをしていた。作っていたのはカレー11人分だった。「見て見ぬふりできない」
寮で学生3人が死んだ東海大では、体育館で学生たちが避難者の世話に走り回っていた。近くに住む高齢者夫婦を家から助け出した学生もいた。この日、避難者をより安全な小学校へ移すことになり、県外の学生もいったん避難すると決まった。住民と学生たちは涙を流して別れを惜しんだ。「おんぶして助けてくれたんだよ」
道路の復旧はまだできていなかった。建設業者が「雨が迫っている。地震も考えると二次災害が起こる」と復旧工事を止めたのだった。