キャスターの菊川怜が岩手・宮古市田老地区にいた。町を取り囲んでいた巨大な防波堤が津波でおもちゃのように吹っ飛んだ町だ。その田老では再び防波堤が作られていた。高さ14・7メートル。かつてもそうだったが、これができると海は見えなくなる。
明治、昭和と2度巨大津波に襲われた田老は、長さ2400メートルの防潮堤で町を守っていたが、平成の津波は17・3メートルもあった。防潮堤はいま残骸が点々と残るだけだ。海とどう向き合うのか。5年をかけて出した結論は、また防潮堤だった。
「絶対ここに住み続ける」「もう波の音を聞くのもいや」
湾の山際にある「たろう製氷貯氷施設」には津波の到達点が示されている。「平成17・3メートル」「明治15・0メートル」、かなり下がって「昭和」がある。「平成」は田老観光ホテルの4階にまで達した。生き残った人たちは割れた。「波が来ないところ。高台に」「子孫を考えると平地には住めない」という人、「思い出がある。どこにも行きたくない」「逃げればいい」という人-――。
田老に限らない。この議論はどこでも起こった。仙台市宮城野区は最大7・1メートルだった。阿部勇さん(66)は海から1・8キロで被災した自宅を再建した。「絶対にここに住もうと思っていた」という。しかし、妻のいみ子さん(65)は「ここには住めないと思った」と話す。母親のゑをなさん(86)は波の恐怖が忘れられず、いつも海を見ているという。
沿岸部に2階家が1軒だけ建っていた。佐藤義徳さん(44)の自宅で、津波でかろうじて残ったのだという。ご近所はいない。みな流されてしまって誰も戻って来ない。石巻市の阿部実和子さん(55)は「波の音を聞くのが嫌だ」という。4月、海の見えない復興住宅に引っ越す。5年経っても海への恐怖心は消えなかった。