戦前から戦後にかけての日本映画を代表する女優だった原節子(本名・会田昌江)が、9月(2015年)に肺炎のため亡くなっていた。95歳だった。42歳で引退してから53年間、鎌倉の自宅にこもり、公の場には一切出ず、取材も受けず、「永遠の処女」という伝説を生きた人だった。
親族によると、8月下旬に風邪をこじらせて神奈川県内の病院に入院し、9月5日に亡くなった。葬儀は近親者で行ったという。公表をひかえたのは、「騒がないで」という本人の遺志だったという。
山田洋次監督「美しいままに永遠に生きている人です」
山田洋次監督は、「原節子さんが亡くなったなどという知らせを聞きたくありません。原節子さんは美しいままに永遠に生きている人です。半分は神様と思って手を合わせます」というコメント出した。
横浜市生まれ。15歳で日活多摩川撮影所に入り、「ためらう勿れ若人よ」でデビュー、清純な美しさが注目を集め、日独合作の「新しき土」(1937年)のヒロインに抜擢されて、日本の映画界のトップ女優となった。
戦後も時代を代表する監督の作品に次々に起用されている。「わが青春に悔なし」(46年・黒澤明)、「安城家の舞踏会」(47年・吉村公三 郎)、「青い山脈」(49年・今井正)、「めし」(51年・成瀬巳喜男)など、まさに時代を代表する女優だった。
そして小津安二郎監督だ。戦争で夫を亡くした妻を演じた「東京物語」(53年)はじめ、「麦秋」「小早川家の秋」など小津作品に欠かせない存在になる。「晩春」(49年)では毎日映画コンクールの女優演技賞を受けた。
しかし、62年の「忠臣蔵」(稲垣浩)を最後に突然引退して、外部との接触を断った。引退の理由も語らず、かつて共演した人たちとの電話連絡が細々と続くだけだったようだ。
小津映画が海外で注目され、原ファンも広がったが、すでに引退後で、原節子のイメージはスクリーンだけ、声もスクリーンだけ。生きているのに伝説になった。
女優人生より長い余生
藤森祥平アナが新聞各紙の抜き読みをした。「映画に入ったのは経済的な理由だった」「映画はあまり好きではなかった。何とかやっていければいいというのが本音だった」「私という人間は家庭にいた方が合っている」など、原の古いコメントがあった。
司会の夏目三久「抑えた演技で、柔らかさを表現していた」
牧嶋博子(TBS解説委員)「この間、『東京物語』を見直したんですけど、顔立ちなんかバタ臭いというか、大柄なんですけど、非常に上品な、なんていうか、神様が永遠の美しさを閉じ込めてしまったような・・・」
トップスターの、映画で生きたよりもはるかに長い余生とはどんなものだったろう。これを破れるのは山口百恵くらいか。