イメージ最悪「バッドボーイ」だった五郎丸歩!トップリーグ公式戦でラフプレー出場停止6週間

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   明るい話題から。ラグビー日本代表の活躍は日本中を歓喜の渦に巻き込み、帰国した彼らはメディアに追いかけ回されている。なかでも最優秀選手に選ばれた五郎丸歩(29)は国民的スターになった。

   正確なキック、勇猛果敢なタックルは敵の猛者たちを震え上がらせた。PG(ペナルティーゴール)のときのルーティンに見せる手を胸の前で合わせてちょっと首を傾げる仕草は、世界中の子どもたちが真似するようになった。先々週の『週刊現代』によれば、南アフリカ戦の後、五郎丸はスポーツライターの藤島大氏にこう語ったという。「勝利は必然です。ラグビーに奇跡なんてありません」

   消防士の父親が熱烈なラグビーファンだった。3歳のとき、兄たちの背中を追って福岡の「みやけヤングラガーズ」に入りラグビーを始めた。だが、グラウンドの横の草むらでバッタを追いかけているほうが多かったといっている。彼はサッカーをやりたかったようだ。

   佐賀工業高校から早稲田大学へ。早大時代はスター選手として海外遠征も果たしヤマハ発動機に入った。しかし、最初のシーズン、トップリーグ公式戦でラフプレーのため6週間の出場停止。その頃は「バッドボーイ」(藤島氏)のイメージがつきまとったという。

   2年目のシーズン途中、会社の経営状態がよくないことを理由にチームが縮小されてしまうが、広報宣伝の仕事をしながらラグビーを続ける。入団7年目にヤマハは日本選手権で優勝した。日本代表には大学時代から選出されていたが、出場の機会に恵まれず、前回のW杯でも出場はかなわなかった。

   「ヘッドコーチのエディー・ジョ-ンズは『世界一のハードワーク』と言われた、常識外れとも言える厳しい練習で代表選手たちを鍛え上げました」(ラグビー担当記者=『週刊文春』)

   結婚は早かったと自著「不動の魂」(実業之日本社)の中で明かしている。早すぎるといわれたが、「自分の子供にプレーする姿を見せたい」と思ったからだという。私生活は決して表に出さないが、子供がいるとすれば、幼子の心に父親の活躍はしっかりと刻まれたに違いない。

   アメリカ戦後のインタビューで五郎丸は泣いた。夢ではなくなっていた、すぐ手の届くところまで来ていた決勝戦に出られなかった悔しさが襲ってきたのかもしれない。

   五郎丸よ、19年の日本で開催するW杯がある。そこでまた君のあのキックを見せてくれ。

奥さん死去で剃髪!ノーベル賞大村智さん・・・実家に家建ててもらい頭上がらなかった

   『週刊新潮』がノーベル賞を受賞した日本人2人の人生と、その意義を特集している。「アフリカ大陸を救った男」としてノーベル医学生理学賞を受賞した大村智・北里大特別栄誉教授(80)は、その功績はもちろんだが、テレビなどで伝えられる大村氏所有の豪邸、美術館、温泉、蕎麦屋が話題になっている。

   なぜそのような資産が形成できたのか。大村氏の実家は山梨県韮山市で養蚕などを生業とする農家だった。山梨大学の学芸学部自然科学科を卒業した大村氏は、東京の夜間高校の理科教諭となり、後に研究者の道を歩み始める。

   27歳のときにお見合いで、母親と同じ名前の文子さんと結婚。これが大きな転機となったという。大村氏と親交のある守家勤さんがこう説明する。<「彼は奥さんに頭が上がらなかった。というのも、彼女の実家は新潟県でデパートを経営していた資産家で、結婚してまだ間もない頃、奥さんの実家が、みすぼらしいところに住んではダメだと、家を買う資金としてポンと1500万円、援助したそうですから」>

   実家から援助してもらながら研究者の道を歩み始め、1971年に米国の大学に客員教授として赴任。帰国後の74年、北里研究所抗生物質室長時代に、米国の製薬会社「メルク社」とのイベルメクチン(寄生虫病の薬)の共同開発につながる細菌を、静岡県伊東市のゴルフ場近くの土壌から発見するのだ。

   この薬が広まった背景には、メルク社が大村さんの同意を得て、80年代後半からWTO (世界保健機構)を通じ無償提供されたことが大きく関係しているという。この薬を含む薬品の開発によって、大村さんはこれまで250億円もの特許料などを手にしている。

   週刊新潮は大村さんを『類を見ない科学者』たらしめているのはその豪快さだという。250億円のうち220億円を北里研究所に寄付。残った30億円から税金を引いて手元に残った15億円の中から、2億円を出して小中高生が高名な研究者から講義を受けられる「山梨科学アカデミー」を設立した。しかし、2000年に夫人を亡くしている。

   <「大村先生は奥さまを非常に大切にされていました。他界されたのがよほどショックだったのでしょう。彼女が亡くなられた後、先生は剃髪し、頭を丸められたんです。奥さまの存在がどれほど大きかったのか、改めて気づかされました」(近隣住民)>

   私もカミさんの実家から援助があれば、もっとましな編集者になっていたかもしれない。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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