芥川賞作家・高井有一の谷崎潤一郎賞受賞作品を、『遠雷』『Wの悲劇』『噛む女』などで知られる脚本家・荒井晴彦が監督作として映画化した。
1945年、終戦間近の東京・杉並で、父を結核で亡くし、母と伯母と暮らす19歳の里子(二階堂ふみ)は、空襲に怯え、満足に食べ物ものどを通らないが、それでも生きることに必死だった。
里子が暮らす家の隣には、妻子を疎開させ、徴兵を逃れて暮らす38歳の銀行員・市毛(長谷川博己)がいて、里子は彼の身の回りの世話をしていた。戦況は悪化の一途をたどり、年頃の里子は自分が結婚もせず死んでしまうのではないかと考えるようになり、焦燥の念を抱くようになる。
しかし、不安を抱えながら、市毛の身の回りの世話をすることが里子にとって「生きがい」となっていくのだった。
「わたしが一番きれいだったときわたしの国は戦争で負けた」
戦争を描いているのだが、ナレーションや歴史文献の類を排除し、「そこに人がいる」というだけで描く。言いたいことをドラマの展開から自然発生的に出るダイアローグで伝え、テーマに迫る手法は鮮やかである。
作品のコピーにもなっていて、里子が朗読する「わたしが一番きれいだったときわたしの国は戦争で負けた」は、詩人・茨木のり子が19歳で終戦を迎え、その時の経験を綴った詩の一節である。
荒井監督は庶民の生活を通して戦争を描き、男女間の心の振動を徹底的に描き、この国の戦後責任について伝えていく。戦争が終わり、市毛の妻が疎開先から帰ってくることは里子の本望ではない。「戦争が終わった」世の中では疑われていない意識に疑問を突きつけ、誰が戦争を始め、誰が戦争を支持したのかを世にといたい。安保法案の強行の渦中に解き放つ監督の覚悟だろう。
さまざまな戦争映画があるが、これほど人間の実生活から本質に迫る作品は稀有であり、戦後70年の節目に観るべき映画と言えるだろう。
おススメ度☆☆☆☆
丸輪 太郎