「あの嘘つきには死ぬまで会わない」母親に言われたニトリ似鳥昭雄社長「履歴書」捏造部分

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「極貧でも暴力的父親でもなかった。母親の年齢まで違ってる」

<「調子に乗って、あることないこと書いて、あの子は小っちゃい頃から嘘つきなのさ。いつも『母さん、母さん』って擦り寄ってきては、私を騙してきた。今回もワルぶって恥ずかしいことばかり書いて。開いた口がふさがりませんよ」>

   こう話すのはいまや年商4000億円、国内外に約350店舗を構える家具量販店の雄「ニトリホールディングス」社長の似鳥昭雄氏の母・似鳥みつ子さんである。少し前に「大塚家具」の父と娘の骨肉の争いが話題を呼んだが、家具屋というのはどうも骨肉相食む騒動が多いようだ。しかも、北海道の財界関係者がいうには、骨肉の争いでは「ニトリ」が元祖だという。

   コトの発端は4月に1か月間、日本経済新聞の「私の履歴書」に似鳥氏が連載したことだ。その中で似鳥氏は、子どもの頃の極貧生活や父親の理不尽な暴力、クラスでの陰湿ないじめ、高校進学時にはヤミ米を1俵ほど校長に届けて「裏口入学」、大学時代は授業料を稼ぐためにヤクザを装って飲み屋のツケを回収するアルバイトをやっていたなどと赤裸々に告白したから大変な評判になった。

   だが、それに対して実母から「内容に偽りあり」とクレームがついたのである。彼女は息子が自分のことを「鬼母」のように書いているのが悲しいという。父親が応召された後、女手ひとつで子どもたちを命がけで育て、父親は兵隊帰りだったから厳しかったが、「虐待なんてとんでもないさ。父さんが殴り倒したのも、年に数回。月一回なんてオーバーですよ」と語る。

   昭雄氏が6歳くらいになるまでは貧しかったが、ヤミ米の仕事を始めてからは豊かになり、家には三輪車も白黒テレビもあったそうだ。彼が米を食べられずに稗や粟を麦に混ぜて食べていたという話も、「私は稗や粟なんて見たことない。うちは米屋だったのに米がないわけないでしょう」と全否定。

   米1俵で裏口入学の件も捏造。大学の授業料も私が出したというのだ。そして、一番腹が立っているのは、家具屋を始めたのは似鳥氏が調べ抜いた末のアイデアだったというところだ。

<「家具屋は父さんがやるっていって始めたの。あの頃、昭雄は親戚の水道工事の仕事に行っていて、家にいなかったんだから。父さんが店を家具屋に改装してから『戻ってこい』と昭雄を呼んだの」>

   要は、「ニトリ」は家族で力を合わせて作った会社で、昭雄氏が一代で築いた会社ではないといいたいのだ。そのため、父親が死んでから18年も経った2007年に、母親、弟、妹たちが父親が残したニトリ株(今では200億円にもなるという)を不当な手段で昭雄氏が相続したと訴えている。昭雄氏側も徹底抗戦した結果、一審では全面勝訴、控訴審で和解している。

   似鳥氏は広報を通じて『週刊文春』に、日経に書いたことはほんとうのことだが、和解後、母を訪ねたが会ってもらえなかった。生きているうちに「打ち解けたい」と話している。だが、母親は「もう昭雄の嘘にはうんざり。死ぬまで会うことはない」といいきる。最後に涙ながらに、昭雄に会ったら伝えてくれとこういった。

<「『週刊現代』のインタビューで私の年齢を九十六って話していたけど、母さんまだ九十四だって。母親の歳まで忘れて母さんは悲しいって」>

   どうやら、こちらの争いは、母親の一本勝ちのようである。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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