沖縄「ひめゆり学徒隊」体験講話やめる・・・「戦争を知らない世代に伝わりにくい」

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   70年前の4月1日、米軍が沖縄本島に上陸した。本土防衛のため住民を巻き込んだ持久戦を構えた結果、島民の4人に1人、12万人が命を落とした。「本土の犠牲になった」「捨て石にされた」--沖縄の痛みの原点である。

   負傷兵の看護に動員された「ひめゆり学徒隊」は、第1高女と沖縄師範女子部の15~19歳の女子学生220人だった。その半数以上の123人が死んだ。当時第1高女の4年生で生き残った38人が、先月19日(2015年3月)に同期会を開いた。みな80代半ば。これが最後の同期会と思い定めていた。

生き残った38人で「最後の同期会」

   渡具知美代子さん(86)は16歳だった。壕を転々としながら「痛いよ」「お母さん」と泣き叫ぶ負傷兵を毎日見ているうちに、かわいそうとも思わなくなった。南部の海岸に追い詰められ、手りゅう弾で自決しようとしたところを米軍の捕虜になった。ひん死の子どもをかかえた母親に「水がほしい」といわれたとき、自分の水をやらなかった。「心は鬼みたいで」といまも罪悪感を抱き続けている。

   國吉美恵子さん(86)は後ろめたい思いをいくつもかかえてきた。動員直前に県外に疎開していたのだ。ケンカをしたまま別れた友人は自決していた。戦後も米軍基地の売店など米軍関係で生きてきた。同期会には今回はじめて参加した。会のあと友人が死んだ海岸を訪れた。「来ましたよ。こんなところで死んで、無念だったろうね。来るのはきょうが 最後。だからあっちで会おうね」

   毎年60万人が訪れる「ひめゆり平和祈年資料館」はひめゆり学徒たちが「平 和を訴える拠点に」と作った。設立の話が出たのは33回忌のあとだった。故郷を離れた人たちも協力した。崎浜和子さん(86)もその1人である。戦後は東京で暮らしてきたが、街頭募金をしたりキャンプをしたりと、資金集めに奔走した。「何かしら残してあげないとかわいそうだと思います、本当に」

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