上方落語の第一人者で人間国宝の桂米朝がきのう19日(2015年3月)午後7時41分、肺炎のため亡くなった。89歳だった。衰退した上方落語の復興に執念を燃やし、今日の隆盛を築いた功績で、落語界で初めて文化勲章も受賞した。
文化勲章を受賞した09年10月の会見映像があった。弟子たちに支えられながら席に着いた米朝師匠はいつもの飄々とした表情で「文化勲章というのは大変な賞なんでしょうねえ。なんかようわからんのですけど。えらいこってんねんやろな」と笑いを誘った。
戦後、10人にまで減った関西の落語家
落語は上方が発祥だ。しかし、戦後すぐは関西の落語家は10人ほどで、漫才に押されて風前の灯火だった。66年に独演会形式のオール落語を始め、復活の足がかりを作った。学究肌で、埋もれた噺を発掘して130以上の持ちネタがあったという。
古典噺を映像や書籍に残した。著作は30冊にも及び、エッセーが教科書に採用されたこともある。後進育成にも力を注ぎ、関西お笑い界の一角を若手落語家が占める基礎にもなった。
上方落語協会会長の六代目桂文枝は「ずっとお世話になりました。思い出と感謝の言葉がたくさんありすぎて収拾がつきません」と語る。
けさ(20日)のスポーツ紙は「上方落語復興 最大の功労者」「上方落語救った『神様』」と最大級の賛辞をつけ、「学究肌 埋もれた古典を後世に残す」と書いたところもあった。
オール落語で復活の足掛かり
キャスターの齋藤孝「なるほど、オール落語を始められたんですね。新しいスタイルだった。いまでもやってる方いらっしゃいますけど」
井上貴博アナ「一期一会という言葉を大変大事にしていたそうで、同じ噺でも、その時の噺家と来てくれたお客さんの出会いはその時だけ。だから大切に とおっしゃっていたそうです」
いま、大阪の笑いといえば吉本興業が代表しているかのようだが、そのなかにも落語の血は入っている。とにかくしたたかで、とぼけてて、あれもみんな米朝師匠のDNAなのかもしれない。