次々出てくる百田尚樹「殉愛」と食い違い証言...「長女に会いに上海まで行った」
やしきたかじんの遺産を巡るごたごたはいささか食傷気味だが、もう少しお付き合いいただきたい。先週の『女性自身』もやっていたが、たかじんが1993年に結婚して02年に離婚した2度目の奥さんについて、百田の「殉愛」ではたかじんに「ヨリを戻したいと言うてきた」が、彼が復縁なんかありえへんとはっきりいったという箇所がある。
だが、百田はこの前妻を1度も取材しておらず、親族の一人は「事実と異なる」とこう訴えている。<「話は逆で、たかじんさんのほうから前妻に『やり直してほしい』と何度も言ってきていた。食道がんとわかってからより熱心になりましたが、その頃、前妻はすでに再婚。それでも『僕が死ぬまでだけでも一緒にいてくれ。今の夫と籍抜いてくれ。財産はお前に全部やりたい』と、私もたかじんさんに『あいつしか看取ってくれる人はおらん。なんとかしてくれ』と説得を頼まれた。13年8月頃までそういう連絡があったが、前妻には新しい家庭もあり、断ったんです」>
13年8月といえばたかじんはがんの再発後で、その10月にさくら氏と結婚して3か月後に亡くなっている。維新の党の衆議院議員でたかじんのホームドクターのような存在だったという伊東信久氏は、さくら側がたかじんと実の娘は不仲だったといっていることに対して、たかじんは娘のことをとても気にかけ心配していたと話している。
たかじんの弟子、打越元久氏もこう証言している。<「長女は00年頃から数年間、中国・上海で暮らしていたのですが、たかじん氏が心配して上海の家まで様子を見に行ったことがありました。『娘を連れ戻そうと思っていたが、中国語がめちゃめちゃうまくなっていたので感心し、頑張れよ、と言い、帰ってきた』と話していました」>
次々に「殉愛」に書かれたこととは食い違う証言が出てくる。さくら側のいい分だけで書かれた「かつてない純愛ノンフィクション」は、いま厳しい批判に晒されている。