復縁求める江利チエミに高倉健「もっと早く、なんでそう考えなかったんだ。戻れない」

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   『週刊文春』で鷲田康が「ファンの多くは映画の中の高倉さんの姿を見て、日本人としてのあるべき姿を学んだのではないでしょうか」という長嶋茂雄の言葉を紹介しているが、高倉健は「昭和の男」の最も良質な面をわれわれに遺していってくれたと思う。

   月刊の文藝春秋が「病床で綴った最後の手記」を載せている。期待して読んでみた。短いものである。健さんらしく諸行無常で始まり「僕が最初にそれを味わったのは、終戦、あの八月十五日」だったと書き出す。

   大学を卒業して東映のマキノ光雄に見出されたが、演技ができず、見学してろといわれ屈辱を味わう。昭和残侠伝などでスターの座に駆け上がるが、同じような筋立てで精神的にも肉体的にも追い詰められ、撮影所を抜け出して数十日間の孤独なストライキをした思い出や、大阿闍梨酒井雄哉氏との出会いと親交、映画「八甲田山」の厳しかった撮影現場について書き進めている。

   死の4日前に書き上げて編集部に送ってきたそうだが、読む限り、死が迫っているという切迫感や悲壮感は感じられない。「八甲田山」の監督・森谷司郎がロケ中に酔っ払って、「健さんは、どうしてそんなに強いの?」と泣きながら抱きついてきたとき、「僕はしらふで、『生きるのに必死だからですよ』と、つい本音が口を衝いた」とあるが、ここが人間高倉健の真骨頂か。

   これよりも週刊文春の「40年来の『付き人』が初めて明かす高倉健『秘録』」のほうが読ませる。西村泰治といい、健さんとの出会いは1968年の「祇園祭」で、彼は東映京都の製作スタッフだったが、映画にちょい役でかり出されて間近で見た健さんのかっこよさに痺れ、主演の中村錦之介に頼んで会いにいったのが最初だという。健さんはことのほか気に入ったらしく、西村のことを「やす」と呼んで、京都に来るときには彼のところによく泊まったそうである。

   異父姉が数億円の借金をつくり、結婚していた江利チエミがこれ以上健さんに迷惑をかけるわけにはいかないと離婚したばかりの時、チエミから電話がかかってきたところに居合わせたという。

<「健さん、もう一度、一緒になれないかしら」と言ってきたことがあった。そしたら健さんは「一度別れるって新聞で発表したんだから、いまさら戻るわけにはいかんだろう」と。
   健さんは、自分にも他人にも厳しい人。チエミちゃんに諭すようにこう言ったんです。「おまえがいくら謝っても......。もっと......もっと早くに、なんでそう考えなかったんだ。こうなった以上は、もう一緒になれない。戻れない」>

   だが、健さんはずっとチエミのことを愛していたと思うと語っている。撮影所の楽屋でチエミの「テネシー・ワルツ」を黙って聞いていることが何度もあったという。チエミが亡くなったときも、チエミの自宅の裏に回って1時間以上手を合わせ、その後、2月の厳寒の中、比叡山の飯室不動堂の滝に打たれに行ったという。

   ある騒動で健さんから絶縁され、3年もの間近寄れなかったとき、取りなしてくれたのは吉永小百合だったという。西村の息子の結婚式には健さんと吉永小百合が出席してくれたというから羨ましい。

京都の喫茶店「花の木」これが健さんが愛したコーヒーか...。撮影後に通って何杯もお代わり

   この中にも出てくるが、撮影が終わると必ず立ち寄った「花の木」という健さん行きつけの喫茶店がある。<「夜ふけまでずっとコーヒーを飲んでリラックスするのが日課だったんです。何杯もコーヒーを飲むから、解散するのは朝の三時くらい」(西村)>

   今週の月曜日(2014年12月7日)に所用で京都へ行ったとき、北区にある「花の木」へ行ってきた。烏丸線の「鞍馬口」からすぐのところで、下賀茂神社が近くにある。一見どこにでもある古い喫茶店。前の道路が広いからクルマを止めるにはいい場所だが、やや侘しい佇まいの店で、本当にここかなと思った。

   朝8時からやっている。混むといけないので10時過ぎに入店。扉を開けて入ると先客は2人だった。右手にカウンターがあり、中年の女性がいる。ボックス席は6席ぐらいか。若い女性が和やかに迎えてくれた。

   やや暗めの照明は落ち着いた雰囲気で居心地がよさそうだが、健さんが好きだった乃木坂の「カフエ・グレコ」とも「イノダコーヒー」とも違う。どこかしら「らんぶる」に似ている気がした。モーニングセットが3種類。ホットドッグとコーヒーのセット450円を頼む。

   テレビで見た「花の木」にいる健さんは店の奥に座っていたと思うが、そこにはすでに先客がいる。出てきたホットドックはどうということはないが、コーヒーは香りよくすっきりした味わい。これが健さんの愛したコーヒーかと思わず涙が出そうになった。

   カウンターの奥には古びたジャン・ギャバンのポスターが貼られている。見たところ健さんのサインなどは見当たらない。その潔さが健さん好みか。コーヒーのおかわりを頼んで、健さんが好きだったギャバンの写真を見つめる。健さんは一人でもクルマを飛ばしてここへ来たという。世界的な名優と謳われたギャバンをどんな気持ちで見つめていたのだろう。二人に共通するのは出てきただけで絵になるところだろう。健さんありがとうございました。そう呟いて店を出た。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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