プロ野球新人選択(ドラフト)会議で指名を待つ28歳というプロ野球選手としては遅咲きの苦労人がいた。瀬川隼郎。北海道の社会人クラブ「室蘭シャークス」の左腕投手だ。平日は早朝から出勤し、特殊な熱処理で金属の強度を検査する仕事を担当している。仕事と野球の二足のわらじをこなして10年がたった。
弁当と夕食をいつも用意!「丼物ばっかりだよ」「何でもおいしかった」
隼郎は父・和郎と母・元美の二男として札幌市で生まれた。兄と妹を含め5人家族の幸せな家庭を突然不幸が襲った。母に悪性乳がんが発見されたのだ。「5年生きられるのは半分」と医師から宣告された父は「精神的なショックを配慮し、本人にはむろん、幼い子どもたちにも事実を言えなかった」という。
家族でたのしい時間を過ごせる最後のチャンスと見た父は、みんなをディズニーランドに連れて行った。その2か月後の1995年1月13日に母は34歳の若さで逝った。隼郎は8歳だった。
隼郎が野球を始めたのは小学4年の時だ。父が全力でバックアップし、育ちざかりの子どもたちのために弁当や夕食を作った。その頃のことを父は「丼物ですよ。カツ丼とかオムライスとか。バランスもへったくりもなかった。うまくなくても愛情がこもっていればいいんですよ」と語る。
「なんでもおいしかったです。お弁当すべてがおいしかった」という隼郎は、2年前に3歳年上の泰葉と結婚し、10か月の息子、壮介の親となった。父の苦労が実感として分かる立場になったのだろう。
幼くして亡くした母の手紙「いつもとおくからみまもっているいからね」
ドラフト会議を控え、その父から20年前に母が幼い隼郎あてに書いた手紙を初めて渡された。そこにはこんな言葉が綴られていた。「はやおはどんなおとなになるのかなー いっしょにいたかったなァー いつもとおくからみまもっているいからね びょうきやケガをしないようにまもってあげるからね じゃね バイバイ」
コメンテーターの内科医、石原新菜(34)が目を潤ませた。「亡くなったお母さんと同じ年で、私も2児の母。子どもを置いてこの世を去るのはとても辛かったと思います。将来の子どもの成長を見たかったと思う」
父は「隼郎に野球やらせてよかったなと...鼻高いよ、ハッハッハッ」と笑った。