テニスのグランドスラム(4大大会)のひとつ、全米オープンの男子シングルスで錦織圭選手(24)が準優勝した。優勝こそ逃したものの、体格、パワーで欧米の選手には及ばないといわれていた日本人選手がトップに迫った歴史的な瞬間だった。彼はいかにしてハンデを克服したのか。
インタビューで「何がよかったか」と聞かれ、「ストロークの良さが際立っていた。ベースラインから踏み込んでの攻めが良かった」と語った。これがまさに新しい錦織テニスだった。
松岡修造「世界でケイにしかできないテニス」
ハイライトは世界ランキング1位のノバク・ジョコビッチ選手(セルビア)を破った準決勝だ。2人の立ち位置が違った。ベースラインから2.5メートルもさがっているジョコビッチに対し、錦織はほぼベースライン上。これが動き回る距離の差になる。1ポイントとるために動いた距離は、錦織の 8.42メートルに対して、ジョコビッチは10.43メートルだった。消耗度が大きく違う。
なぜそれが可能だったか。元プロテニスプレーヤーの松岡修造は「普通なら下がらないとジョコビッチは打てない。ケイはフットワークと高い予測能力で対応した」のだという。それを、スタジオでやって見せた。ベースラインより下がると守りの型でオープンステップになる。錦織はラインから片足を踏み込んで強い球を打った。前で打つから球が上がるところでつかまえ、相手の球のパワーも乗ったところで打ち返す。相手は予想したより早く球が返ってくるのだ。これに正確なバックハンド、角度のあるクロス、コースギリギリのダウンザラインで、「相手は何もできなくなる。いまケイにしかできないテニス」(松岡)
破れたジョコビッチは「彼のバックハンドは世界最強。攻撃的で速かった」と脱帽だった。
日本人選手のグランドスラム初出場は1916年だ。ベスト4に残った選手もいたがそれっきり。戦後、テニス人口は増えても世界トップ級は出なかった。95年のウインブルドンの松岡のベスト8が最高だ。世界ランキングも松岡の46位が最高で、松岡が引退して10年以上も100位以内の選手は出なかった。
マイケル・チャンから課せられた「大嫌いな反復練習」ブログに泣きそうです
錦織がテニスを始めたのはこの冬の時代だ。2003年に小学生大会で全国制覇して才能が認められ、13歳で奨学金を得て米のIMGアカデミーに単身留学した。世界中からエリートを集める育成施設で、生徒同士を競わせ、成績が悪ければ退学もある。
英語もできない、ホームシックもあった厳しい環境で、錦織はやはり体格差に苦しんだ。しかし、レベルが上の選手との練習が実を結び、2年後には同世代で最強の選手を破った。17歳でプロデビューして、翌2008年にはツアー初優勝。ランキングを駆け上がったが、2012年からは足踏み状態になる。世界トップ10の壁だった。
それが昨年12月、マイケル・チャンをコーチとしてからは世界が変わった。チャンは17歳で全仏オープンを制したアジア系の星だ。体格もプレースタイルも似ている。チャンが課したのは体力強化と基礎の反復練習だった。当時のブログに「10個以上直された。泣きそうですが頑張ります」と錦織は書いている。
小学4年から見ている松岡は「彼は才能があって感覚でやってきたから、反復練習が一番嫌い」(笑い)という。だが、このおかげで体力がつきミスが減った。相手が勝手にミスをする。これが自信になった。いま錦織は「大事な練習だった」という。ジョコビッチに勝ったとき、「自分の最高のテニスができれば彼らにも勝てると肌で感じ取れた」とまでいった。
ダブルスでグランドスラムを獲った杉山愛も「あの言葉はこれまでなかった。試合でも超トップのテニスをしていた。信じられない成長」という。この快挙が次世代にどう映ったか。松岡は「ジュニアの目が変わった。自分でも、日本人でもできるんだと感じるようになった」という。いまは留学しなくても12~14歳で半年以上もの海外遠征がある。
彼らに送る言葉として、杉山は「ビジョンを描いていくこと」、松岡は「誠実で素直で、信じる力があれば、世界は近い」と松岡節だ。
まあ、そんなカッコいいことばかりでもあるまいが、早くもテニス人口が増加する気配だと巷ではいっている。裾野が広ければ山も高くなる。遠からず第2、第3の錦織が出てくることを期待しよう。野球の大リーグだって、かつては夢のまた夢だったのだから。
ヤンヤン
*NHKクローズアップ現代(2014年9月11日放送「錦織圭 世界の頂点への戦い」)