週刊誌を読む楽しみは特集記事やスクープにあることは間違いないが、好きなコラムを読むのも楽しいものである。もうだいぶ前になるが、連載小説やコラムが新聞や週刊誌の部数を押し上げることがままあった。私が高校生の頃、1962年から翌年にかけて、読売新聞に連載された獅子文六の「可否道」という連載小説が待ち遠しくてならなかった。後に「コーヒーと恋愛」という題名で単行本化されたが、これがきっかけで珈琲を好きになった。
柴田錬三の「眠狂四郎」は、これだけが読みたくて『週刊新潮』を買ったものだった。五木寛之の「青春の門」は『週刊現代』で始まったが、連載が中断すると部数が落ちたといわれるほどの人気だった。
自分の服役経験を基にした自伝的小説「塀の中の懲りない面々」で一躍人気作家になった安部譲二さんとはずいぶん仲良くさせていただいたが、彼が『週刊文春』に連載したコラムは秀逸だった。老いたヤクザがやることもないので上野公園で日がな動物を見て過ごす描写など、思わずほろりとさせられたものだった。たしか、安部さんの後がいまでも続いている林真理子だったと思うが、これも最初のうちは毎回楽しく読んだ。
死ぬまで書き続けた山口瞳「男性自身」
私が手がけた連載コラムのヒットは浅田次郎さんの「勇気凜々ルリの色」である。「プリズンホテル」や「地下鉄に乗って」(吉川英治文学新人賞)を書いてはいたが、まだ知名度はイマイチだった。
おもしろいコラムが書ける新しい作家を探していたので、部員たちに推薦する作家を出してくれと頼んだところ、1人が浅田次郎っていいですよと「地下鉄に乗って」を置いていった。校了が少し早く終わったので、後ろに置いておいたその本を読み始めたら止まらない。読み終わるとすぐに件の編集部員に「浅田さんと会おう」といった。
私は安部さんのような人を描いていたのだが、会ってみると酒は1滴も飲まない予想外の人であった。連載を始めましょうというと喜んでくれたのだが、始めるんだったらどうしても「勇気凜々ルリの色」、このタイトルにしてくれといい張るのだ。1956年(昭和31年)に始まった人気ラジオ番組「少年探偵団」の主題歌で私もよく知ってはいるが、コラムのタイトルとしてはどうかと渋ったが、本人は頑として譲らない。結局、私が折れて凜々にルビを振って始まったが、さっそく業界内で評判になり、部数もハッキリとはわからないが1万部以上伸びたのではないか。その後、「蒼穹の昴」で直木賞候補、「鉄道員」で直木賞を受賞するのはご承知の通りである。
私の編集長時代にはほかに大橋巨泉さんの「内遊外歓」(いまは「今週の遺言」となって続いている)と立川談志さんの「談志百選」を始めた。失礼だが、巨泉さんの連載は私が編集長を辞めたら打ち切られるかと思っていたが、途中断絶はあったが復活し、かなり長い連載になっている。
連載コラムといえば、巨泉さんも尊敬してやまない山口瞳さんの連載「男性自身」(週刊新潮)が有名だ。1963年から31年間、延べ1614回、死ぬまで1度も途切れることなく続いた。死ぬ直前、2回ぐらいは筆が少し乱れ、読み取れない箇所があったが、週刊新潮編集部はそれを直すことはせず、そのまま誌面化したのはすごかった。
「男性自身」は毎回毎回短編小説を読む趣があった。私も一時期親しくお付き合いさせていただいたのでわかるが、あの連載を続けるための苦労は並大抵ではなかったはずである。お酒を飲んでいるときなど、「先生、こんな話があります」といって話すと、そのときは聞いているのかどうかわからない表情をしているが、次の連載にその話を書いていることがあった。いまもときどき読み返しては、書き方のお手本にしているが、あれほどの熱と技を持ったコラム作家は出てこないのではないだろうか。