劇団四季「浅利慶太」同じこと繰り返すアルツハイマー!見かねた親友が引退勧告

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<「今年は劇団創立60周年。僕も81歳になった。医師からも、無理をしないで欲しいと言われている。今日は、僕が劇団トップとしてする、最後の話になると思う」>

   「オペラ座の怪人」「キャッツ」「ライオンキング」など数々のミュージカルをヒットさせてきた劇団四季の浅利慶太さんが6月16日(2014年6月)、劇団員を前に突然の引退宣言をしたと『週刊新潮』が報じている。

   年齢からいっても引き時ではあるのかもしれないが、創立60周年は去年のことだし、次に引用するように、浅利さんの言動がどこか変だというのだ。

<「みなさんに大幅なボーナスをあげたいんだ。財源は37億4000万円。(中略)11年以上の在籍者を年次ごとに6段階に分けて、37億円を払いたい。振り込みは7月14日の劇団創立記念日」>

   大盤振る舞いではあるが、払う額に大きな『格差』があるというのである。<「役員でも1000万円程度しかもらえないのに、浅利先生の奥さんで専属女優である野村玲子さんは、1億以上も貰えるというのですから」(劇団の中堅技術スタッフ)>

   慶応大学時代からの友人である音楽評論家の安倍寧さん(81)がこう話す。<「彼は、軽度のアルツハイマー型認知症。正確に言えば、認知障害です」>

   安倍さんが不安を感じたのは6~7年前のことだという。<「舞台の初日、浅利がロビーに立ち、観客を出迎えて挨拶するのが『四季』の慣習になっています。それが、その場で僕を見つけると、『前に紹介してもらった3軒のレストランは美味しかった。早く4軒目を教えてくれよ』とか、『今日は1人かい。奥さんは一緒じゃないの?』と、同じことばかり繰り返して聞いてくるのです。それでおかしいなと思い始めました」>

   安倍さんと浅利さんは同じ人間ドックを利用しているため、浅利さんが専門医から認知障害だと診断された事実を知ったという。浅利さんの症状は軽度だが、新しい記憶の積み重ねが困難で、固有名詞を思い出すことが難しいそうだ。

   そこで安倍さんは浅利さんの妻・野村玲子さんに相談した後、親友に『引退勧告』をする決意を固めた。2人が対峙したのは3月20日、浜松町にある四季東京事務所の浅利さんの執務室。

<「最初は、浅利も『ありがとう』と言ってくれましたが、認知障害と診断した医師を『あの医者はヤブだから信用できない』と言い出す始末でした。そこで私は、『じゃあ、何でアリセプトという薬を飲んでいるのか』と聞き返しました」>

   アリセプトは国内で広く使われている認知症改善薬だという。<「彼は『誰が君に教えたんだ』と犯人探しのようなことばかり言っていた。私が『そんなことは問題じゃない』と言うと、最後に彼は『言いたければ、言って構わない』と捨て台詞を残したのです」>

   週刊新潮が浅利さん本人に尋ねると、こう答えたという。<「(認知障害は)そんなことはまったくない。告げ口した悪いヤツがいるとわかっています。(功労金の支払いは)いや、あの今年で61周年……。まあ、それで僕は引きますので……。週刊新潮が出たら、僕はきっとクビになると思います>

   けさ28日(2014年6月)付の朝日新聞が、浅利さんが四季株式会社の社長を退任したと報じている。

左遷され頭に来た私に浅利さんがひと言「1年だけ我慢してみないか」優れた人心収攬術

   ここで私事で恐縮だが、浅利さんと私について触れさせていただきたい。私が最初に浅利さんと会ったのは30代の初め。彼を通じて新自由クラブ(当時)の河野洋平さんや安倍寧さんたちと知り合う。当時大人気だった越路吹雪のリサイタルにも何度かお邪魔した。

   だが、越路さんが亡くなりドル箱を失った四季は、参宮橋にあった四季の事務所や稽古場をあざみ野へ移さざるをえなくなり、長年の友人である安倍さんの顧問料も支払えなくなる。困った浅利さんから、私にその旨を安倍さんに伝えてくれないかといわれ、安倍さんに会いに行くが、承服しかねた安倍さんとの仲がギクシャクする時期もあった。

   四季が大きく飛躍するきっかけは、都庁近くの空き地を借りてテント小屋を作り「キャッツ」を始めたことである。作品のすばらしさはもちろんだが、期間を区切ってのテント小屋公演という発想がユニークで、「キャッツ」は爆発的な人気を呼んだ。

   浅利さんに劇団員の女性と見合いをさせられたことも懐かしい思い出である。一番忘れられないのは、私がジャニーズ事務所のスキャンダルを週刊現代で記事にして大騒ぎになり、会社は収拾するために私を婦人誌へ飛ばしたときのことだ。会社のやり方に頭にきた私は、銀座のバーで浅利さんと会って辞める覚悟を話し、浅利さんのところで秘書として雇ってくれないかと頼んだ。しばらく私の目をじっと見つめ、浅利さんはこういった。

「君の気持ちはわかった。だが、婦人誌へいったばかりでは、そこの仕事が好きになるかどうかわからない。1年だけ我慢してみないか。1年経って君が辞めたいというなら僕が責任を持って面倒を見よう」

   このひと言がなかったら、私は会社を辞めていたと思う。合わないと思っていた婦人誌は意外にやってみるとおもしろかった。そして2年後に月刊現代へ移った。

   こういういい方は失礼になるかもしれないが、私がこれまで会った中で浅利さんほど優れた人はいないと思っている。演出家としてはもちろんだが、人心収攬術、弁舌のさわやかさと説得力、経営者としても秀でている。だがそうした人にも年齢による『老い』は確実に来る。

   しばらく前にこういわれた。「元木くん、60代と70代は全然違うよ。君ももうすぐ70になる。気をつけなさい」

   そして70代と80代も違うのだろう。寂しい。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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