「天声人語」名物コラムニスト深代惇郎…かつてこんな新聞記者がいた
講談社発行の『g2』に連載していたノンフィクション・ライター後藤正治氏の「コラムニスト深代惇郎と新聞の時代」がおもしろい。Vol.16号が最終回だが、ここでは深代氏だけではなく新聞コラムの『職人』たちの名文が読めるのも楽しい。
深代氏は朝日新聞の名物コラム「天声人語」で最高の書き手だったが、46歳の若さで急性骨髄性白血病で亡くなってしまった。私が親しかった読売新聞社会部出身の本田靖春さんは、1967年の元日号からスタートした「世界名作の旅」の深代氏についてこう記している。
<単に文章がうまいだけなら、驚きはしない。紀行文には、ニュース記事には表れにくい書き手の教養が滲み出る。「名作の旅」に登場した者たちは、おしなべて品のよい教養人であった。(中略)畏友、深代惇郎もこの企画に一枚加わって、すでに定評のあった滋味豊かな才筆を揮った。かつての警察(さつ)回り仲間が、私の手の届かない遠い世界へ行ってしまったような気がして、寂しい思いを味わった記憶がある>
深代の「天声人語」のさわりを少し紹介しよう。<雪が見たいな、とはげしく思うときがある。暗い空の果てから雪片が音もなく、休むこともなく、霏々翩々(ひひへんぺん)と舞い降りてくる。その限りなく降る雪が、峻烈に心を刺してくれるだろう>
<美しい夕焼け空を見るたびに、ニューヨークを思い出す。イースト川のそばに、墓地があった。ここから川越しに見るマンハッタンの夕焼けは、凄絶といえるほどの美しさだった。摩天楼の向こうに、日が沈む。赤、オレンジ、黄色などに染め上げられた夕空を背景にして、摩天楼の群れがみるみる黒ずんでいく>
<「夏の終わり」には、客がいっせいに帰ったあとの食卓のような、むなしさがある。人の来なくなった海岸のヨシズ張りの小屋で、「氷」のノレンがぱたぱたと鳴るときのような、白々しさがある。夏の情熱を吹き込んで、ぎらぎら燃えていた太陽が、すべてが終わろうとしているのに、まだ無神経に輝き続けている。そのそらぞらしさが、夏の終わりなのだろう>
「いつかもう一度、法隆寺を訪ねてみたい」。1975 (昭和50)年11月1日。深代の絶筆となった天声人語の結びである。もう一度深代の「天声人語」を読みたくなってきた。