芝居っ気たっぷりに「作曲の苦悶」を演技
佐村河内は曲の売り込みを行っていた。問題はこの先だ。広島生まれ、被爆2世と35歳で聴力を失ったことを売りに、講演では「大きな闇を背負って生きてきました」「音が降りてき始めました」「闇の中の小さな光」などと話し、自伝では作曲の苦しさを「完成を目前にしながら悶絶する日々を送らねばなりませんでした。…発汗や嘔吐を伴う硬直の後、激しい全身痙攣が起こり、気絶してしまうことも…。ほとんど例外なく失禁しており、鼻からもたびたび出血していました」と書いていた。新垣氏はこれを「全体的にウソだらけですが、とくに幼少期のピアノレッスンの部分は、私が話した自分の体験そのままでした」という。
『新潮45』(2013年11月号)は「全聾の天才作曲家 佐村河内守は本物か」という記事を載せていた。「ふだんは頭痛その他で臥せっているはずが、NHK番組や演奏会ではいつもお元気」といった内容だった。この記事をきっかけに、新垣氏はコンビの解消を申し入れると、佐村河内から「だまし続けた悪しき18年間の真実を洗いざらい遺書として配り、夫婦で自害しお詫びしようと思います」というメールが来た。自殺をほのめかしながら、今後も曲づくりを迫った。新垣氏はいったんは受け入れたものの、結局、告発に 踏み切ったという。
司会の小倉智昭「30半ばで耳が聞こえなくなったというんですが、最近のおしゃべりを聞いていると大変上手ですよね」
木下康太郎アナ「なぜ共同ではいけなかったのでしょうかね。富と名声なのか、このあたりがわからないですね」
小倉「あの指示書なら、音楽が多少わかる人なら書けるが、交響曲にする方が絶対大変です」
中江有里(俳優)「プロデュースするような感覚だったんですかね」
菊川怜キャスター「あの曲で癒された人もいたのに…」
小倉「ボクなんかそうですよ」