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自殺の崖っぷちに現れた細木数子もまた…1億数千万円の「手切れ金」

   追い詰められていたとき、島倉は細木と出会ったのである。当時の島倉は細木さんがいなければどうなっていたかと、感謝の気持ちを私にも話してくれた。人生いろいろどころではない苦難の人生を歩んできた島倉だが、その表情にも歌う姿にも、そんな陰を見せることはなかった。

   だが、だいぶ経ってから、島倉が細木の所を離れたと聞いた。債権者を説き伏せて返済を引き延ばす一方で、細木氏は島倉の興行権を手に入れた。その後の経緯を週刊新潮はこう書いている。

<その興行権に、大いなる価値があったという。
   「当時の島倉は日建ての稼ぎが800万円。私は松尾和子を扱ったことがあったが、半分の400万円。島倉の稼ぎは破格だった。細木はミュージックオフィスを作り、島倉のマネージャー兼プロダクション代表を務めたのだが、島倉が稼ぎまくる金を、借金の返済に積極的に回したという話を聞かないのは、どいうことだろうか」(ヤクザ組織に詳しい事情通)
   (中略)細木のことを無二の恩人だと語っていた島倉も、次第にこうこぼすようになったという。
   「いくら働いても借金は減らないし、こんなに働いているのに、私には何も残らないのよ」>

   週刊新潮によれば、コロンビアレコードが細木と堀尾側に『手切れ金』として1億数千万円を払って関係を断ち切らせたという。以来、島倉は細木については自伝の中でも一切触れていないそうである。

   『週刊文春』は島倉が幼い頃の輸血がもとでC型肝炎になり、子供への影響を考えて子供を産めなかったと書いている。その子供が産まれたら「忍」という名前を付けたいと、可愛がっていた歌手の小林幸子に語っていたという。彼女の墓石には「音の門」と彫られ、その横には「忍」と刻まれている。

   戦後を代表する女性歌手といえば美空ひばりと島倉千代子である。私生活では恵まれなかったところも共通している。幸少なく忍ぶことばかり多かった人生だったが、今度こそ島倉が安らかに眠れることを祈りたい。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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