東京電力・福島第1原発の事故で、事故対応の現場指揮をとった吉田昌郎元所長がきのう9日(2013年7月)、食道がんのため死去した。58歳の若さだった。東日本大震災による津波で全電源喪失という事態から、原子炉建屋の爆発、メルトダウン、汚染の拡大と、世界の原発事故で最悪の事態となった。事故発生から食道がんがみつかって退くまでの8か月間、休んだのは4日間だけだったという。
東電は被ばくとの因果関係否定
「本店! 大変です。3号機が爆発。多分、水蒸気爆発だと思う」というナマの声が残っていた。福島と東京とを結ぶテレビ会議の声と映像だ。「ただ水を入れりゃいいと思ってたのかよ。周りでわれわれが見ているんだぜ。それで爆発したら死んじゃうんだぜ」
時に本店の指示を無視した独断が事故拡大を救ったこともある。
2011年11月入院。12月に所長も退いたが、そのとき「福島県のみなさま、日本国民のみなさまに心よりおわび申上げたい。まずそれが第1 です」といっていた。事故当初については、「(3月11日の)1週間、『死ぬだろう』と思ったことが数度ありました」とも話していた。
手術を受け12年2月に退院したが、7月に脳出血を起こして入院、治療を受けていた。死因は食道がんというが、詳細は明らかでない。懸念は、被ばくとどれだけ関係していたのかだ。東電によると、吉田氏の8か月間の総被ばく量は約70ミリシーベルトで、基準値の100よりは低く、年間50 という制限は超えているものの、事故当時は250ミリシーベルトという特別の設定があったため、これにも触れない。東電は「ガンなど影響が出るのは5年かかるため、被ばくが原因とは考え難い」としている。
「所長が吉田さんじゃなければ、海水注入止めてたかもしれない」
司会の小倉智昭は「指揮をとりながら、きつい局面もあったと思う。その意味では命を賭してがんばった」という。小倉は吉田氏が東工大を出て、 通産省に内定していたのを東電に変えていたことを紹介して、「3.11でもし通産にいたらとぞっとした」という。どういうことかというと、この3月に小倉が第1原発を取材した際、「原発が最悪の事態を免れた要因は?」ときいたとき、「吉田所長じゃないか」 という人がけっこういたのだという。「吉田さんじゃなかったら、海水注入をやめていたかもしれないし、どうなっていたかわかりませんね、という言葉を聞くとね」
吉田氏はまた福島でのシンポに病床からビデオレターをよせて、復帰への意欲を示していた。小倉は「無念だろうなと思います。ある意味日本を救ってくれた人」と話を結んだ。