舞台は中国で最も貧しい雲南省だ。標高3200メートルのシーヤンタン村で暮らす10歳の英英(インイン)、6歳の珍珍(チェンチェン)、4歳の粉粉(フェンフェン)の3姉妹に『鉄西区』(2003年)、『無言歌』(10年)のワン・ビン監督が、正面からカメラを向け、自国の貧しさを浮き彫りにしていくドキュメンタリーである。
ヤギに餌をやり、妹のシラミをとり、腹が減りじゃがいもを食べる…
高地に暮らす住民の貧困対策として、シーヤンタン村の住人は低地への移住が決められているが、誰がいつ引っ越すのかは不明確である。ハスチョロー監督『胡同の理髪師』(06年)でも、昔から胡同で暮らす人々が立ち退きを迫られるが、なかなか取り壊しを行わない役所の在り方を描いた。
ていたらくは明らかだが、中国という国はメンツを重視するので、シーヤンタン村にカメラを持ち込ませるのは都合が悪い。ワン・ビン監督は国に許可を取らず、フランスと香港の力を借りて製作した。『A Touch of Sin』がカンヌ国際映画祭の最優秀脚本賞になったジャ・ジャンクー監督も、『長江哀歌』(06年)以前の作品は中国では上映されていなかった。ダイ・シージエ監督『中国の小さなお針子』(03年)は文化大革命を題材にしているだけで上映禁止とされた。
表現の自由に対しての政治の介入は3姉妹の存在とリンクしているように思える。勉強より労働が重視され、ヤギに餌をやり、妹のシラミをとり、腹が減りじゃがいもを食べる―怒りや悲しみを封印して、そこには不条理がただ存在しているだけである。『中国のお針子』の山村で暮らす少女が不条理を克服するきっかけになったものは、バルザックの書物であったが、3姉妹にとってバルザックに代わるものとはいったい何なのだろう。
ジャ・ジャンクーら中国人監督は映画監督である前にジャーナリストであり、国内で上映が禁止されようが、許可が下りなかろうが、世界に発信していく精神が国境を越え、海を越え、表現の自由を獲得している。この映画でもドラマは起きず、淡々と3姉妹を追っているだけだが、2時間30分を超える長尺でも見せてしまうのは、「メッセージとしての映画の必要性」が強烈であるからに違いない。アニメやドラマの映画化が主流になってしまった邦画に、映画の必要性はあるだろうか。
川端龍介
おススメ度☆☆☆☆☆