太地喜和子から逃げた三國連太郎「(彼女の)体にひれ伏すことがイヤだった」
三國連太郎が亡くなってしまった。奇しくも、彼が探求して止まなかった親鸞と同じ卒寿であった。以下に私が連載している『ジャパンナレッジ』の「コトバJapan」で書いた三國の部分を引用させていただく。
<「狂気の役者」とも呼ばれたが、その原点は彼の生い立ちにある。父親の祖父の出身は被差別部落で、父親は電気工事の職人だったが「権力を忌み嫌い、反骨精神にあふれた男」(『生きざま死にざま』KKロングセラーズ刊、以下『生きざま』)だった。奉公先から追い出され孕んで困っていた娘と出会い、結婚して三國が生まれる。
学歴のない父親は子どもたちの教育に熱心だった。勉強嫌いの三國が中二のとき学校をやめるといいだして父親にひどく殴られ、家出を繰り返し朝鮮半島にも渡っている。
召集令状がくるが「赤紙一枚で死ぬことは嫌でした」(『生きざま』)と、兵役忌避をして朝鮮半島へ渡ろうとした。直前、母親に書いた手紙を、息子が兵役忌避をして一家が村八分になることを恐れた母親が警察に届けたために捕まり、中国の戦地へ送られてしまうのである。
三國は国ではなく國にこだわった。国には王の字が使われているのが嫌だ、国家というのは不条理なものだと話したことがある。反権力・反骨は父親譲りであろう。
俳優生活は順調で数々の賞も受賞するが、50歳頃に西アジアにドキュメンタリーの撮影に行き、宗教への関心を芽生えさせる。なかでも鎌倉時代に「仏の前にはみな平等」と説き、命を賭して被差別救済に生きた親鸞に傾倒していき、15年の歳月をかけて映画『白い道』を自ら監督して完成させるのである。(カンヌ映画祭審査員特別賞受賞)
三國は4度の結婚をしている。3度目の結婚相手は神楽坂の芸者で、その息子が俳優の佐藤浩市である。父親らしいことを何もしてもらわなかった佐藤は、最後まで父とは呼ばずに「三國」といっていた。
女性遍歴も有名だ。広島で戦地へ出発する日、これが最後かもしれないと思って駆け込んだ遊郭で「女菩薩」のような女性に出会ったという。彼女が忘れられず、1946年に日本に戻って、すぐに広島に向かったが、そこは無惨な瓦礫の原になっていたそうである。
三國が39歳の頃、18歳年下の女優・太地喜和子と激しい恋に落ちた。『生きざま』で三國は彼女に「女性観に強い影響を与えられた」と書いているが、太地の一途さに彼のほうから離れていったようだ。後に三國は彼女の「体にひれ伏すことがイヤだった」と語っている>
『週刊新潮』は太地がある雑誌でこう話したと書いている。 <「彼は私を抱きながら、私の過去をよくききたがった。特に性体験のさまざまを‥‥‥私は彼の催眠術にかかったように、すべてを話してしまったけど、あのころの私は、彼の血だって平気ですすることができたし、痰だって飲むことができたでしょう」>
死ぬ2日前に、病床で三國はこう呟いたという。
「港に行かなくちゃ。船が出てしまう」
こんな俳優は二度と出てこないだろう。