大島渚「死ぬまでバカヤロー!」世の中すべてに噛みついたけど、夫婦喧嘩1度もなし

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   映画監督の大島渚がきのう15日(2013年1月) 午後、肺炎のため亡くなった。革新と反骨を貫いた80年の生涯だった。

   1932年生まれ。京大法学部卒業後、松竹大船撮影所に入り、1959年の「愛と希望の町」で監督デビューした。60年の「青春残酷物語」「日本の夜と霧」でみせた性や暴力の激しい表現、強い社会性で、 「ヌーベルバーグの旗手」と呼ばれた。しかし、「日本の夜と霧」がわずか4日間で上映打ち切りになったのを機に松竹を離れ、以後独立プロからフリーで活動を続けた。

妻・小山明子へのプロポーズ「必ずカンヌに連れて行く」

   1976年の「愛のコリーダ」は過激な性描写が論議をよび、78年の「愛の亡霊」はカンヌ国際映画祭の監督賞を受賞した。83年の「戦場のメリークリスマス」はデビッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしの異色の起用が話題になり、多くの賞を受賞して代表作になった。

   「愛のコリーダ」では、性描写の写真入りの単行本がわいせつ文書とされ裁判になったが、82年に無罪を勝ち取った。「芸術であろうがなかろうが、一切の性表現は自由であるべきだ。大の大人が見たいものを見る、読みたいものを読む、それがなんでいけないんだ」といった。タブーに挑み、新しい表現を求める姿勢は終生変わらなかった。

   一方、80年代後半からは、テレビ朝日系の深夜討論番組「朝まで生テレビ」などの歯に衣着せぬ発言で知られた。政治から文化まで誰にも臆せず、ときに「バカヤロー」と怒鳴りつける発言が記憶に残る。

   96年にロンドンで脳出血で倒れ、療養を続ける中、99年にメガホンととった「御法度」が遺作となった。夫人の小山明子さんとのおしどりぶりは有名で、プロポーズで「いつか世界に認められる監督になって、君をカンヌへ連れて行く」といったのは有名な話。実際は5回カンヌへ行った。

   夫婦については、「二人三脚は真ん中の足は結ばれているけど、両側の足は自由なんだよね。ついそのことを忘れる。片一方の自由な足をお互いにどれだけ尊重できるか」といっていた。小山さんは「1度もケンカしたことはありません」と話す。最後を看取ったのも夫人だった。

珍しくほめられたテリー伊藤「なかなかいい演出するね」

   司会の加藤浩次「テリーさんは親交があったんですよね」

   キャスターのテリー伊藤がこんな話を始めた。「27歳のとき、日本テレビの番組のできが良くなくて干されて、テレビ東京でバラエティーやっていた。そのとき出演していた大島さんから、『キミ、なかなかいい演出するな』と励まされて、長い間その言葉が励みになりました。

   監督が倒れたあと、ボクのラジオ番組のスタジオに小山さんが来て、『病院で聞いてるから、なんか言ってやって』というのでしゃべったら、『あいつががんばってるから、オレもがんばろう』と喜んでくれたと聞いて、これも励みになった」

   ほとんどの大島作品を見ているという宮崎哲哉(評論家)は、「日本春歌考」「絞死刑」「日本の夜と霧」を上げた。「『夜と霧』は前衛的で、長回しで役者さんがセリフをかんでもそのまま。渡辺文雄、佐藤慶、津川雅彦さん、小山さんも出ていて、演技がすばらしい。役者を育てる点でも優れた監督だった」と話す。

   テリーは「青春残酷物語」をあげ、「『僕たちはこんなに遠くへ来てしまった』というセリフがあって、どういう意味だろうと、子どもながらに考えたまのです」という。「あれほど死刑、同性愛、差別とか、体制に立ち向かう人は今の世の中ではもう出てこないでしょうね」

文   ヤンヤン| 似顔絵 池田マコト
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