中村勘三郎が亡くなった。57歳だった。それにしても早すぎる。酒好きで、お喋り好きで、ゴルフ好きで、友達大好きで、家族はもっと大好きで、奇想天外、人のやらない事をやって驚かせるのが大好きな梨園のヤンチャな若旦那だった。
夢見てた3大スター競演「大和屋さん(坂東玉三郎)と澤瀉の兄さん(猿之助)と俺で小屋並べるの」
2000年、元旦から横浜みなと未来に大きなテント小屋が開幕した。坂東玉三郎(大和屋)が建てた劇場「21世紀座」だ。そこに市川猿之助(澤瀉屋)と中村勘三郎(中村屋)が加わって、当代の3大スターの競演に横浜は正月から大賑わいになった。
テレビ局で番組を作っていた私は、1か月間この3人に密着していた。勘三郎は目を輝かせて喋りまくった。「これは俺の夢なんだけどさ、ひとつの場所に、こっちには大和屋さんの小屋、その向かいには澤瀉の兄さんの小屋、こっちには俺の中村屋の小屋があってさ、3つは朝から晩までずうっと芝居するの。お客さんにどれを見ていいか迷わせちゃうの。若手の役者が、客引きのために路上で寸劇してお客さんを奪い合ってね、そこでも3座とも芸競いあるの。とにかく、この3人なら絶対できると思うんだけれどね、歌舞伎広場が…」
勘三郎が夢にまで見ていた構想の3人の競演は、遡ればひと昔前の先代中村勘三郎がこの世を去った葬儀の時からだったと彼は声を潜め、インタビューテープを止めさせて話し始めた。
「全然後悔してないけど、出てみたかったなあ、スーパー歌舞伎」
「親父の葬式の時にさ、俺ショゲキっていてさ、中村屋の看板じゃあ芯はまだ張れないしね。そんな所に澤瀉屋の兄さん(先代・市川猿之助)が来て、隣に座って、俺の肩に手を回して言ってくれたんだよね。『一緒にやろうよ二人で手を合わせて』ってね。その時、俺どうしたと思う? イソちゃん? とっさに言っちゃったんだよね、『ヤダヨ!!』って俺。兄さんの手を振り解いて言っちゃたんだよ。あのひと言だよ。俺の人生を変えた瞬間は。俺がもう少し大人しくってさ、ヤンチャじゃなければ、その後に澤瀉の兄さんとやっていたろうね。スーパー歌舞伎を。後悔? 全然していないさ。こういう性分だし、俺なりに仲間はイッパイいるし。でも、出てみたかったなあスーパー歌舞伎」
その年(2000年)に勘三郎は浅草で「平成中村座」を立ち上げ、市川猿之助のスーパー歌舞伎にない、より江戸の歌舞伎を彷彿とさせる庶民感覚でお客を舞台に引きずり込んでいった。エネルギーと茶目っけ、ヤンチャぶり。目を閉じればその姿や声が浮かんでくる。
(磯G)