中村勘三郎急逝のニュースが駆け巡ったきのう5日(2012年12月)、 勘九郎(31)、七之助(29) の2人の息子は、父を看取った後、京都へ戻っていた。勘九郎襲名公演は本来なら親子で共演するはずだった。「無念だったと思います。私たちも無念です」と勘九郎は舞台の口上で涙を浮かべた。
その勘三郎は1988年、先代勘三郎の死に目に会っていなかった。このとき彼は、「(先代から)親の死に目に会うような役者になっちゃいけねぇよ、といわれていた。その意味では親孝行かなと」といっていた。因果というのか。
人工呼吸器付けながらセリフの練習
兄弟が5日、東京にいたのは偶然 だったらしい。勘九郎は「公演が1週間近く経ったから、ちょっと様子を見に帰ろうかという感じだった。着いてみたら大変なことになっていて」という。「このところ安定していたので、びっくりでした」
七之助は「先生方が人工呼吸器をつけたまま声を出せるようにしてくれたら、その時点でセリフをいってました。これだけ前向きなら絶対大丈夫だと信じていたんですが」
2人が最後に言葉を交わしたのは10月半ばころ。父と兄弟だけで女の子の話やらで楽しく過ごしたという。「母が帰ってきたので、寝たふりしてくださいといったら、寝たふりしたんです」と勘九郎は笑った。
勘三郎は息子たちを溺愛していたが、やんちゃだった幼い七之助にビンタを食らわせた映像が残っていた。化粧台の鏡に向かう父の後ろからピースサインをしたらしい。いきなり張り手を食らって、はって逃げる七之助。勘三郎は「稽古してる時に何をピースなんかしてるんだ、アホ。いい加減にしろよ。もういい、きょうは帰んなさい」と怒鳴る。どうやら、何か前段があったのだろう。その後ろで凍りついている勘九郎も写っていた。父と子はそういう日々を生きてきたのだった。
「歌舞伎を若人のものにしたい」と海外公演、渋谷進出
キャスターのテリー伊藤との対談で、七之助が女の子にもてる話なんかも嬉しそうにしていた。テリーは「あのときを思い出してみると、歌舞伎ができたころは若い人のものだった。もういちどそういう感じで演じたいといってい た」という。浅草から始まり、ロンドン、ニューヨークまで足を延ばした「平成中村座」も、渋谷に進出した「コクーン歌舞伎」も、紅白歌合戦の司会もバラエティの出演もその線上にあったわけだ。
同じ対談で、「英語で歌舞伎を」という話をしていた。「それを考えたのは私が最初じゃなかった。ワシントン・ポストの記者が教えてくれた。なんとうちのひい爺さんだった」。そういう家系らしい。
勘九郎は口上で「父勘三郎と母好江の間に生まれて誇りに思い、感謝をしております。父のことを忘れないでください」と語った。テリーが繰り返し「惜しいよね、日本の宝だ」という。襲名披露公演の千秋楽が12月26日なので、本葬はそれ以後になるが、通夜は10日、密葬は11日と決まった。