人気のない海岸を歩いていると、背後からつけてきた男たちに突然麻袋を被らされ、身体を拘束されて車に押し込められた。待機していた密航船に乗せられ北朝鮮に連れ去られた――。
北朝鮮による拉致事件の被害者が帰国して10月15日(2012年)でちょうど10年になる。被害者の一人、蓮池薫氏はある真実を明らかにした。「北朝鮮当局が死んだとしている拉致被害者は、死んだとされるその日も生きていた」と話す。
「北朝鮮当局は拉致事件を国内にも隠したかった」
キャスターの国谷裕子が「北朝鮮ではある程度の自由は許されていたのですか」と聞く。蓮池はこんな話をした。「警備隊と鉄条網で守られた山あいの招待所に収容され、厳しい生活でした。当局からは私は在日朝鮮人で祖国に帰国したと名乗るようにという指示を受けていました。日本人だと分かると、なぜ日本人が北朝鮮にいるのかと疑問視され、拉致事件が明るみに出るかもしれない。それを当局は恐れて、在日朝鮮人と名乗るようにと指示したのだと思います」
国谷「1990年代後半に北朝鮮は深刻な食糧危機に見舞われました。当時の北朝鮮の国内状況はどうだったのですか」
蓮池「深刻な事態でした。当局は食料を配給するとしていましたが、なかなか配給されない。自分も招待所の周りでトウモロコシを栽培しました。
日本からの経済協力が何が何でも必要な状況で、体制を維持することが最優先の北朝鮮にとって、疲弊した経済の立て直しが一刻を争う問題になっていました。それが、自分たちが帰国できるきっかけになったのだと思います」
国谷「なぜ帰国できたと思いますか」
蓮池「帰国の際、当局から2週間で戻ってくるようにという指示を受けました。でも、日本に帰国して改めて感じたのは、帰りを待っていてくれた家族との絆の強さでした。しかし、北朝鮮には子供を残してきた。どちらの絆を優先すべきか、思い悩みました」