小沢一郎ついに「男としても政治家としても終焉」妻から容赦ない三行半

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「こんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています」

「(中略)長年お世話になった方々のご不幸を知り、何もできない自分を情けなく思っております。
   このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げ出しました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しいときに見捨てて逃げ出した小沢を見て、岩手や日本のためになる人間ではないとわかり離婚いたしました。(中略)
   八年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才をすぎました。三年つきあった女性との間の子で、その人が結婚するから引きとれといわれたそうです。それで結婚前からつき合っていた●●●●という女性に一生毎月金銭を払う約束で養子にさせたということです。小沢が言うには、この●●●●という人と結婚するつもりだったが水商売の女は選挙に向かないと反対され、誰でもいいから金のある女と結婚することにしたところが、たまたま田中角栄先生が紹介したから私と結婚したというのです。そして『どうせ、お前も地位が欲しかっただけだろう』と言い、謝るどころか『お前に選挙を手伝ってもらった覚えはない。何もしていないのにうぬぼれるな』と言われました。あげく『あいつ(●●●●)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる』とまで言われました。
   この言葉で、三十年間皆様に支えられ頑張ってきたという自負心が粉々になり、一時は自殺まで考えました。息子たちに支えられ何とか現在までやってきましたが、いまでも、悔しさと空しさに心が乱れることがあります。(中略)
   (昨年の=筆者注)三月十六日の朝、北上出身の第一秘書の川辺が私の所へ来て、『内々の放射能の情報を得たので、先生の命令で秘書達を逃がしました。私の家族も既に大阪に逃がしました』と胸をはって言うのです。あげく、『先生も逃げますので、奥さんも息子さん達もどこか逃げる所を考えてください』と言うのです。
   福島ですら原発周辺のみの避難勧告しかでていないのに、政治家が東京から真っ先に逃げるというのです。私は仰天して『国会議員が真っ先に逃げてどうするの! なんですぐ岩手に帰らないのか! 内々の情報があるのならなぜ国民に知らせないのか』と聞きました。
   川辺が言うには、岩手に行かないのは知事から来るなと言われたからで、国民に知らせないのは大混乱を起こすからだというのです。
   国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるというのです。(中略)川辺はあわてて男達は逃げませんと言いつくろい、小沢に報告に行きました。
   小沢は『じゃあしょうがない。食糧の備蓄はあるから、塩を買い占めるように』と言って買いに行かせました。その後は家に鍵をかけて閉じこもり全く外へ出なくなりました。復興法案の審議にも出ていません。
   (中略)岩手に行こうと誘われても党員資格停止処分を理由に断っていたこともわかりました。知事に止められたのではなく放射能がこわくて行かなかったのです。
   (中略)本当に情けなく強い怒りを感じておりました。実は小沢は、数年前から京都から出馬したいと言い出しており後援会会長にまで相談していました。もう岩手のことは頭になかったのでしょう。(中略)
   かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく、自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています。(中略)せめて離婚の慰謝料を受けとったら岩手に義捐金として送るつもりです。(中略)                      小澤和子」

たった1人で希代の権力亡者追い詰めた「松田賢弥記者」お見事

   長々と書き連ねたことをお許しいただきたい。これは「週刊文春」に掲載された「小沢一郎 妻からの『離縁状』全文公開」(ジャーナリスト松田賢弥+本誌取材班)からの引用である。

   これを読みながら涙が出て止まらなかった。この欄で何度も書いているが、私と松田記者が小沢一郎をやろうと思いたったのは、小沢が自民党最年少の幹事長になった頃だった。ふてぶてしい面構えで、田中角栄の庇護を受けて伸びてきた若き実力者に注目し、小沢を中心に据えて永田町を見ていこうというものだった。

   私は小沢の憲法観や「普通の国」という考え方には批判的だったが、彼が今後どう動いていくのかには興味があった。私たちの予想通り、小沢は権力者への階(きざはし)を順調に上っていった。途中、心臓病で倒れたり、自民党を離党し新党をつくったが、常に権力の中心にいた。

   私が「週刊現代」編集長時代には、毎週のように松田記者の手による小沢批判が誌面に載った。金脈研究はもちろんのこと、紀尾井町の料亭「満ん賀ん」の女将とのラブロマンスから「隠し子」のことまで書いた。正直、なかにはなかなか書きにくいこともあったし、十分に裏のとれないこともあった。それは小沢が若いタレントに産ませたという子どものことだった。彼女の素性はわかったが、なぜ何年か経って「満ん賀ん」の女将だった愛人がその子を引き取ったのだろうか。詰め切れない「謎」の部分もすべて、今回の妻・和子の地元の親しい後援者にあてた手紙に書いてある。

   妻に、男としてはもちろんだが、政治家としてここまで完膚無きまでに批判された代議士は聞いたことがない。「あいつ(●●●●)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる」という心ないひと言が、彼女にここまで書く決意をさせたのだろう。馬鹿な男だ。小沢一郎という政治家の終焉である。妻から捨てられ、地元から見捨てられた政治家は生きてはいけない。消費税増税反対に最後の力を振り絞るのだろうが、もはや小沢の帰るところはない。

   私が現役を離れたため、たった一人で小沢を追い込んだ松田記者の執念の取材はお見事というしかない。

小沢ガール田中美絵子議員 大崎駅頭で人目はばからずキャリア官僚とチュッ!

   小沢関連では、「週刊新潮が小沢ガールズのアイドル代議士・田中美絵子が妻子のある国交省中部地方整備局副局長のキャリア官僚(55歳)と不倫中だと書いている。書くだけではなく、6月5日(2012年)、東京大崎駅で田中が件の官僚氏と待ち合わせして、人目を憚らずキスしている写真まで撮ってグラビアに掲載している。その後、2人は駅とつながっている連絡通路を歩いてシティホテルへ向かい、一夜を共にしたという。

   彼女は「社会保障と税の一体改革」特別委員会の委員を務めているが、これではそちらのほうには集中できそうもない。

三笠宮寛仁親王の葬儀―妻ではなく長女が喪主つとめた夫婦事情

   三笠宮寛仁親王は皇室のスポークスマンとして発言し、モノいう皇族として、庶民の人気はすごいものがあった。十数回にわたるがんの手術にも耐えたが、6月6日に薨去(こうきょ)された。享年66。文春によれば雅子さまの療養が長く続く皇太子ご夫妻のことも心配しておられ、皇太子の「人格否定発言」の直後には、皇太子に手紙を送ったが、返ってきたのは儀礼的な返事だったそうだ。

「常々、『皇太子の周りには家来がいない』とおっしゃっていました。東宮という『役所』に詰めている人間だけでは、生身の人間同士の付き合いができないという意味です」(三笠宮寛仁親王の知人)

   ヒゲの殿下と親しまれたが、夫婦仲は秋風が吹いていたと、文春、新潮がともに書いている。妻の信子さまは麻生太郎元首相の実妹である。本来ならば葬儀の喪主を務められるはずが、喪主は長女の彬子女王殿下だった。新潮はこう書いている。

「『信子さまには気位の高い面があり、必要以上にプリンセスとして気負っている感じでしたね』(知人)という声があるのもまた事実。やはり、殿下の永年の闘病と破天荒な生活。そしてその看護から、やがてストレスを強めていったのかも……」

   小沢の場合もそうだが、夫婦仲というのは難しいものだ。今晩はケーキでも買って早く帰るか。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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