「末世」にはこれを読め!正岡子規「病牀六尺」
今朝(3月1日)も都内で震度3の地震があった。NHKによれば、これは3・11の地震の余震だそうだ。ここへきて地震の回数が増えた気がする。「週刊現代」によれば、震度7の地震が起こったら、ドラム式の洗濯機の中にいるようで「助からない」そうである。
最近「末世」という言葉がよく使われるようになった。戦乱の時代に法然が出てきて貧しい民たちに一心に南無阿弥陀仏と唱えることを説いた、あの時代と現代が似ているというのだ。たしかに、阪神淡路大震災から東日本大震災と続き、そう遠くないうちに首都圏直下大地震や富士山噴火まで起こるといわれているのだから、日本全体がうつ状態にあるといってもいいだろう。明日への光が見えない中で日々どう生きるかが、われわれ一人ひとりに問われているのだろう。
こんなとき私は正岡子規の「病牀六尺」を読み返す。病のため寝たきりの子規には病牀の六尺さえも広すぎて、蒲団の外までも足を延ばすことができない。そのうえ激しい痛みが彼を襲う。
「病牀六尺、これが我世界である。(中略)それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない」
子規の生涯35年のうち、7年間は結核のために床に伏せっていた。こうした絶望的な中でも子規は人生を楽しみ、明るさを失わなかった。そうした子規の生き方に学ぶところが多いからである。