被災地・飯舘村のベストセラー「までいの力」って何だろう
「週刊ポスト」はぶち抜き85ページの大特集「被災地と原発の真実」を組んでいる。放射能と原発については、これまでの主張を繰り返していて目新しい情報はないが、ポストが震災以後一貫して続けてきた被災地の書店のその後を追った「3・11から1年 復興の書店」を興味深く読んだ。復興へ向けて歩み出した書店で売れている本は、他の土地で売れている本とはひと味違う。『大きな字の常用国語辞典』は年配者が買い求めるそうだ。仮設住宅ではいくつも鍋を持つわけにはいかず、圧力鍋が売れたそうで、圧力鍋のためのレシピ本も売れた。
お世話になった人たちへ手紙を書こうと『手紙の書き方とマナー』。『10年日記』のような将来を設計する本も問い合わせが多かった。釜石の遺体安置所を巡るルポ『遺体』は、死者がどう処置されたのか知るために買われたのではないかと、釜石市の書店店長が語っている。飯舘村の日常を紹介した『までいの力』も読まれている。
「までいとは『思いやり』といった意味で使われる方言です。(中略)飯舘村はいま、人が住めない場所になってしまいましたが、『までいの力』があればいつか必ず立ち上がれると思う」(飯舘村の書店の元副店長)
岩手県山田町の「大手書店」は、昨年6月から小さな店舗で営業を再開した。本も文房具もなく、当初はお祭り用のクジや景品を並べていたという。書店の娘・大手恵美子はこう語る。
「自分がこの町に残って何ができるかと考えた時、やっぱり本しかないという思いがあったからです。できることと言えば、考えることしかなかった。駄目だな、やんなきゃな、ってずっと考えていたんです」
釜石で一番古い書店だった「桑畑書店」はかつて70坪あったが、いまは9坪。店主の桑畑眞一は瓦礫の中から見つけ出した定期購読者のリストを頼りに、病院や美容院などを回った。津波で流されたこの辺りは人が少なくなってしまったが、ノンフィクション・ライターや市長を招いてシンポジウムや絵本の読み聞かせの会などをやっている。気仙沼市大槌町のショッピングモールに昨年12月22日、化学薬品メーカーで働いていたサラリーマン夫婦が素人書店を始めた。その名は「一頁書店」
「本の一頁目はとても大切ですよね。最初の一歩という気持ちを大切にしていこう、と思ったんです」
そう妻の木村里美が語っている。
南相馬市の「おおうち書店」の店主・大内一俊は、同市が屋内避難を指示されていた3月に書店を続けようと思った。店のシャッターを開け、床に散らばった本や雑誌を棚に戻していると、街から避難しなかった人たちが少しずつ集まってくるようになったからだ。客は4分の1に減って、若い女性や子どもの多くが避難したため、女性誌やファッション誌は売れなくなったが地図が売れるようになった。お客の数は減っているのに、書店の売上げは伸びているという。他に開いている店がないことと東電からの賠償金があるため、震災前より売れる本の単価が高くなり、週刊誌を3冊も買い込んでいく客がいるそうである。
飯舘村にある村営書店「ほんの森いいたて」には書店の窓に「きっといつか再オープンするぞ!!」と書いた紙が貼られている。IAEAが飯舘村で高濃度の放射性物質を検出して発表したのは3月30日だった。元副店長の高橋みほりはこう話す。
「閉店するとき、絶対また会おうね、再開したら買いに来るからねと言われながら、みんなと抱き合ってお別れしたんです。それだけ愛されていた本屋なんだなって思ったし、震災からの短い期間だったけれど、続けてきてよかったと感じました」
こうした人たちに支えられて本や雑誌が読者の手に届き、読まれていることを、出版に携わる人間一人ひとりがもう1度真剣に考える必要があるはずである。