9日(2011年12月)早朝に息を引き取ったフィギュアスケート・浅田真央の母の匡子さんが、五輪金メダルを夢見て娘との二人三脚で歩んだ人生を振り返った。
二人三脚で世界のトップへ
フィギュア選手としての浅田の原点となったのは名古屋市中区の名古屋スポーツセンター。ここで5歳になった真央は姉の舞と一緒に練習を始め、世界トップレベルの技術を身につけるまでの10年間続いた。練習には常に母が寄り添い、車での送迎、練習前のストレッチのサポート、アスリートとしての栄養管理など細かいところまで気を遣っていた。
「いつも和気あいあい。にこにこ笑いながらストレッチをやっていた。お母さんが深い愛情で真央ちゃんに接しているのがすごくわかりました」(スポーツセンター関係者)
週に1度は練習を終えたあとに食事に立ち寄ったという互楽亭の主人も、「いろいろ品物をとって3人で分けて食べていましたが、お母さんは栄養のバランスを考えて注文していましたね。常に子供と一緒という感じでした」と話す。
練習を終えて自宅に戻ると、足に負担がかかるのを心配して真央たちにマッサージをしたという。
そして昨年2月のバンクーバー冬季五輪。女子フィギュア史上初めてトリプルアクセル3回に挑戦したが、絶好調の韓国のキム・ヨナに金メダルを奪われ、銀メダルに終わった。感想を聞かれた浅田は涙を流しながら、「悔しいのと嬉しいのと両方です」と話し、さらに「真っ先に伝えたい人は」と聞かれると、「お母さんです」ときっぱり答えた。
来週12月22日に世界選手権代表選考の競技会
年明け3月に母は体調を崩し入退院を繰り返すようになった。いまから思えばそのせいだったのだろう、1か月後の4月に行われた世界選手権は6位に終わった。
女医(内科)の友利新は「肝硬変は沈黙の病気といわれるぐらい初期症状はなく、体がだるい程度。ただ、進むとからだ全身のかゆみや吐き気に襲われ、闘病生活はかなり厳しいものだったろうと想像できます」という。
11日に近親者のみで通夜が営まれ、父親の敏治はマスコミに「舞も真央も、母の安らかに眠っているような顔を見て、やっと苦しかった闘病生活が終わったことを自分たちなりに納得し、今は気丈にしております」と伝えた。
テリー伊藤「これからもお母さんが心の中で生き続けるだろうから、新しい競技をやっていくなかで、お母さんのために頑張ろうという思いがさらに強くなると思う」
来年3月の世界選手権(仏ニース)代表を決める全日本選手権が来週22日に行われる。浅田は出場するか。