吉田昌郎・福島原発所長入院!東電ひた隠す病名と被曝線量―新聞・テレビなぜ追及しない?

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談志「最後の連載」―もう無理だ。生きる『シカバネ』そのまんま

   先週も触れたが立川談志師匠の死は、まだまだ大きな波紋を呼んでいる。「お別れの会」を月命日の12月21日に東京・千代田区の「ホテルニューオータニ・鶴の間」で開催する。午後3時半からファンの献花と記帳を受け付けるそうだが、かなりの数が見込まれ、一時は東京ドームを借りてはどうかという案まであったという。

   談志師匠が連載していたこともあって、現代はグラビアも使って大談志特集をやっている。談志師匠の息子は、昨年11月に医者から咽頭がんが再発していることを聞かされていたと話している。声帯摘出がベストだと医者はいったが、それを父がよしとするわけもないから告知しなかったが、暮れに告げると、予想通り手術はしないという答えが返ってきた。「プライドが許さねぇ」といったそうだ。

   しかし今年3月になって、師匠自らが切開手術を決断して、そのために話せない、食べられない、ほとんど寝たきりの状態になってしまった。筆談でやり取りするしかない。立川志らくがとってもよくなってきたと身内が話すと、そうかそうかと喜びながら、「でも、オレが一番」と書いてよこしたそうだ。だが10月27日に容体が急変する。ほとんど意識が戻らないまま11月21日に永眠。

   私が仲介して始まった連載「談志の時事放談 いや、はや、ドーモ」は、驚くことに1度も休んでいない。苦しい中でも乱れる字ながら書き続けてきたのである。病気のことには1度も触れていないが、珍しく10月の終わりの原稿で「女房(ノン)くんのこと」と、奥さんについて書いている。

「ある時、俺が怒った。そのときの態度がよかった。『怒られちゃった』。可愛いの何の、俺、この一言でこの人を嫁さんにと決めてよかった」

   奥さんとは何度か修羅場もあったようだが、最後は愛妻と娘、息子に看取られ旅立っていった。

   今回、病状に触れていたため、身内が担当者に渡さなかった原稿が掲載されている。海が好きだった師匠が、各地の海の思い出を書き綴り、最後にこう書いている。

「もう無理だ。家元、ノドに穴をあけられ喋れず、唯、家でじっとTVを見ているか、こんな文章を書いているだけになったのだ。人間、何が来るかは判らない。まさか喋れなくなるとは思わなかった。手術は断るべきであった。おまけに胃袋に管で食事を入れるだけ。そうなると味覚もない。その前に食欲がわかない。何だろう。生きる『シカバネ』そのまんまである。(中略)誰かが昔、云った。談志さんは何も云わなくてもいいのですよ。高座に座っててくれればネ。昔、俺も同じような事を志ん生に云ったのだ。勿論本気で云ったのだが。手前ぇがそうなるとは、つゆ思わなかった‥‥‥」

   私も師匠にそう言ったことがある。高座で寝ててもいいから生きていてくださいと。

   モノクログラビア最後のページで、自宅近くの根津の銭湯で湯につかっている写真がある。表情がとてもいい。

「銭湯は裏切らないね。いつ行っても絶対に気持ちイイ」

   文春によると「二十一日、談志の遺体は、愛したディキシー・ジャズの名曲『ザッツ・ア・プレンティ(これで満足)』とともに自宅を後にした」とある。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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