戒名は「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」
「談志が死んだ(だんしがしんだ)」
これは11月21日(2011年)に亡くなった立川談志さんが落語のまくらでよく使っていた、どちらから読んでも同じ回文である。戒名は談志さん自らが決めていた「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」。
私が知らせを受けたのは22日の火曜日だったが、その日のブログ元木昌彦の「編集者の学校」にこう書いたので、少し長いが引用させていただく。(注・公開したのは知らせてもらった人との約束もあり、23日の夜である)
「立川談志さんが亡くなってしまった。月曜日の午後だという。残念だ。
月曜日は日刊サイゾーの原稿を書き終わってから、ずっとYoutubeで談志さんの落語を聞いていた。夜寝るときもiPadで聞きながら寝た。
2時半頃、トイレに起きたとき談志さんのことが気になった。もし何かあっても私のようなところまでは来てくれはしないよな、そうふと思って周囲を見回した。
その12時間ぐらい前に亡くなっていたのだ。
ずいぶんよくしてもらった。一昨年の暮れに上野の鰻屋で『立川談志を聴く会』を嵐山光三郎さんと開いた。
そのときは体調が悪くて、トイレに行くにも障子を伝って歩くほどで、にわかごしらえの高座に上がるのも弟子の力を借りてやっとだった。
声の出ないながら、2時間近くもしゃべってくれたが、内心では、これが最後の高座になるかもしれないと思った。
だが、あれだけ嫌っていた入院だったが、ご本人自ら入院してビールとハルシオンを一緒に飲むことをやめ、春にはかなり体調が戻ってきた。以来ビールは飲んでいなかったと思う。
それからは弟子の高座に出たり、ラジオに出たりとポツポツではあるが仕事もこなしていた。そうして昨年暮れの読売ホールでの出来事が起こるのだ。観客だけではなく、談春ら弟子たちも感激して感極まったという歴史的な『芝浜』を一席丸ごと演じたのだ。
私は残念だが見ることはできなかったが、それほどまでに体力、気力が戻ってきたのかと喜んだものだった。
だが、今年の東日本大震災以降、再び体調を崩し、家に戻ったが声が出なくなり、痰がしょっちゅう出るために家族の人たちは24時間態勢で痰をとってあげていた。
それでも私が仲介して始まった『週刊現代』の連載「立川談志の時事放談」の原稿は休むことはなかった。
だが、先月だろうか容体が急変して病院へ入ったが、それ以来意識は戻らなかったようだ。
まだ75歳。古典落語を愛し、落語家として生きた全身落語家・立川談志さんの早すぎる死は悲しい、悔しい。
談志師匠の了解はもらっていたのに、古今亭志ん朝さんの体調が悪くて実現できなかった「談志・志ん朝二人会」を、向こうでやりましょうね! 師匠。
談志さんに書いてもらったわが家の表札が宝物になった。
夜、中野の「第二力酒造」で談志さんの「万金丹」を聞きながら酒を飲んで、ひとり弔いをする。つくづく惜しい人を亡くしてしまった」