「新聞は権力からの独立のみならず、一歩踏み込んで権力の監視という役割も担っている。自由な報道や論評は民主主義の重要な基礎であるはずだ。(なのに)あまりにも多くの情報や判断を特定の情報源に依存してこなかったか」
これは「週刊朝日」の連載「しがみつく女」の中で室井佑月が引用している、10月15日(2011年)からの新聞週間に東京新聞が寄せた「当たり前の新聞を目指す」という宣言の一部である。
東京新聞は違う。一人気を吐く「増税前にやることあるだろ!」
これに続けて、「とりわけ官僚である。官僚組織はもっとも情報の集積が厚い。官僚の情報はいま目の前にある現状だけでなく、政策を通じて、これから起きる未来の姿を先取りする部分もある。だから新聞にとって官僚は重要な情報源になっている。だが、震災と原発事故が示したのは『官僚がいつも正しいとは限らない』という事実だった。新聞は政府も東電も、いや有力学者の解説さえも疑ってかからねばならなかった」
私は15日から日中友好のため中国へ旅立ったので、この宣言を読んでいなかった。遅ればせながら全文を読んでみた。その言やよしだが、同時に、このような自明のことをわざわざ持ち出さなければならないほど新聞が病んでいることを感じたのである。
今週発売の週刊誌の多くが、厚生労働省が突然年金部会に提示した「年金開始年齢を68~70歳で検討」という理不尽な案に、当然のことながら怒っている。04年の年金制度改革の際、小泉政権は国民に年金の保険料アップと支給額2割カットという二重苦の改悪を押しつけ、これで年金制度は100年安心だと説明したではないか。
各誌を読み比べてイマイチ不満なのは、怒るだけで、ではどうしたらいいのかという対案がほとんど示されていないことだ。大新聞は財政再建のため増税やむなしと大本営発表を垂れ流し、財務省のお先棒を担がされていることに気付かないのか、洗脳されてしまっているのか、恥じることさえない。
だが、東京新聞は違う。2010年代半ばまでに段階的に消費税を10%まで引き上げる方針に対して、敢然と異を唱えている。天下り根絶のための公務員改革、年間5兆円を超える国家公務員人件費の2割削減、公務員官舎建設計画の廃止、国会議員の報酬削減や定数見直しなど、増税を国民に強いる前にやることがあるはずだとして、安易な増税は「そうした努力もせず国民にカネの無心をすることと同じではないか」と断じ、「増税は最後の手段だ。政府はまず身を削る。筋を通せと主張したい」と結ぶ。パチパチ!そのとーりである。
橋下府知事「負」ばかり書かれすぎ!なぜ「ハシシタ」じゃないのか
ところで、橋下徹大阪府知事が大阪市長選に出馬することで、彼は改革者か、独裁者かといった論議が喧しい。中でも「週刊新潮」は「『同和』『暴力団』の渦に呑まれた独裁者『橋下知事』出生の秘密」で、橋下の過去を徹底追及している。発端は「新潮45」(11月号)で橋下の叔父がこう語ったことからである。
「あいつのオヤジは、ヤクザの元組員で、同和や」
叔父も、橋下の父・之峯も博徒系ヤクザ「土井組」の組員で、之峯がハシシタという読み方をハシモトに変えたのだそうだ。その父親は博打好きで、ヤクザに借りた借金が返せずに自殺したと父親の知人が語っている。
橋下の従兄弟は殺人で逮捕歴がある。知事になって府の財政を全て見直すといっていたのに、「同和予算」だけは削らない。若手弁護士時代、大阪きっての売春地帯・飛田遊郭の法律相談を引き受けていた。橋下の秘書が大阪ミナミのラブホの最上階で乱痴気パーティをやっていた。虎の威を借る「維新の会」の面々の中には叩けば埃が舞い上がるのもいるなど、これでもかの橋下攻撃。「週刊文春」も「橋下徹42歳書かれなかった『血脈』」で似たようなことを書いている。
いまもし首相公選制があれば、当選するかもしれないほどの人気とカリスマ性をもった人物だから、メディアが取り上げるのは当然だが、どうも負の部分ばかり強調しすぎる気がしてならない。まだ政治家としては駆け出しの新人である。彼の出自よりも、彼が本物の政治家なのか単なる扇動家か、そこをじっくり掘り下げてほしいと思う。
遼と仲良く軽自動車で帰宅。家族ぐるみの付き合い
数日前からテレビのワイドショーやスポーツ紙を賑わせていたプロゴルファー石川遼の恋人騒動だが、火元は「女性セブン」だった。10月16日、埼玉県松伏町にある石川の大豪邸の駐車場に1台の軽自動車がとまっていた。まだ石川は帰ってこない。翌17日、再びその軽自動車が駐車場に現れる。「白いシャツを羽織り、足下は黒のブーツ。女優の水川あさみ似のA子さんは、さらさらのセミロングヘアを白いポニーテールにしていた。その車の助手席に座っていたのは赤いチェックシャツ姿の石川だった。ふたりはそろって豪邸の中へとはいっていった」(セブン)
ふたりは中学校の同級生で、家も近く家族ぐるみの付き合いだそうだ。「出会って7年。二人で密かに育んできた純愛は、石川に、父親から離れ、自分の手で新しい家族を作るという未来図を見せていたのだろう」とセブンは書いているが、あのステージパパの父親(勝美)が、そう簡単に息子の親離れを許すとはとても思えないが。
「私はグリ森犯じゃない」黒川博行と週刊現代どっちに説得力?
さて、順調に部数を伸ばしてきた「週刊現代」に大問題が起きている。ノンフィクション・ライターの岩瀬達哉が、すでに時効になったグリコ森永事件を取材して連載した「21面相は生きている」の中で、仮名になっているが犯人と断定されたと、作家の黒川博行が怒って各誌に手記を発表している。先週の文春が詳しいので、引用しながら経過を記そう。
かつて黒川は、デビュー作の中で書いた脅迫状の文面や身代金の受け渡し方法がグリ森事件と酷似していたことで、兵庫県警に事情を聞かれたことがある。しかし、それ以上追及されることはなかった。今回、岩瀬と編集者から話を聞きたいと連絡があり、都合3回取材されたそうである。
岩瀬が黒川を真犯人だと疑う根拠は、犯人とされる人間と身長・年齢が黒川と合致、犯行に使用されたクルマと似た車に乗っていた、当時も親類がメッキ工場をやっていて容易に青酸ソーダを入手できた、脅迫テープに言語障害を持つ子供の声が録音されているが、黒川の妹の息子にも言語障害がある、犯行現場に土地勘があるなどである。
だが、黒川は妹に言語障害の息子はいない、土地勘はない、青酸ソーダを入手できるメッキ工場は親族が経営しているが、事件当時はプレス工場だったと、明らかに3点は間違いだと主張している。岩瀬と現代に対して抗議したが、誠意ある回答はないと憤る。
私は岩瀬というライターを知っているが、地道に取材をする優れた書き手である。年金問題を暴いたことでも有名で、彼が単なる思いこみで書くとは思いにくい。黒川が問題にしているのは最終回とその前の号である。もう1度読んでみた。仮名にしてあり、その男が作家ということにも触れていない。もちろん住所も特定していないし、ほとんどの読者にはこの人物が黒川であることはわからないように配慮はしてある。黒川の怒りはわかるが、よほど彼について知っている人間でないと、この人物が黒川だと特定はできないのではないか。
だが取材はどうかというと、一番肝心の「彼の妹の息子が障害児」という重大な事実を確認していないようだ。黒川ははっきりそうではないと断言しているのだから、うかつというだけではすまされない。それに、最終回のタイトルは「スクープ直撃!あなたが『21面相』だ」となっているのだ。この人物が、たとえ少数でも黒川だと特定できるとすれば、プライバシー侵害は成立するのではないか。その際は、この断定的なタイトルが現代側にはマイナスになるだろう。今週号の現代で、岩瀬側はどんな反論をするのか期待して読んでみたが、1行も触れていない。
編集部には説明責任。批判にきちんと答えるべきじゃないか
2年前になるが、週刊新潮が朝日新聞阪神支局襲撃犯の手記を掲載し、それがまったくのウソだったことが朝日新聞や他誌の指摘で明らかになった。ついには告白した当人までが、文春などで手記は新潮に強制されて書いたと白状して、新潮は大失態を演じた。
そのことが週刊誌不信を拡大し、新潮だけではなく他の週刊誌の売り上げも減少し、存亡の危機に立たされたことを思い出す。現代は鈴木章一編集長が「団塊向け週刊誌」という原点帰りをして部数を大幅に戻し、東日本大震災や島田紳助スキャンダルで勢いをつけ、ナンバー1の文春に迫ろうかという時期に起きた大トラブルである。
岩瀬も現代編集部も黒川の批判にきちっと答えるべきである。小沢一郎のカネの問題で説明責任を果たせと追及してきた現代が、この問題に説明責任を果たさなければ、小沢追及とはいったい何だったのかを問われるのは間違いない。
文春で黒川がこういっている。
「私は二人(岩瀬と編集者=筆者注)を天神橋筋商店街のお好み焼き屋に招待しました。二万円弱の食事代は私が支払いましたが、これは大阪人のサービス精神であり、大阪で旨いものを食ってもらいたいという厚意です」
取材相手におごってもらうなど、ノンフィクション作家の故・本田靖春が聞いたら何と嘆くことだろう。