たけし「ヤクザに土下座したけど頼んだことない」世間に通用するか…

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「やっぱりあたしは ドブ川暮らし あんたを待ってちゃ いけない女さ」(作詞・松原史郎 作曲・森田公一)

   ちあきなおみ(64)の「ねぇあんた」を聞きながらこの原稿を書いている。「紅とんぼ」「遠くはなれて子守歌」「星の流れに」など、不運な女の身の上を唄わせたらちあきなおみは美空ひばりを超えると、私は思う。

   その伝説の歌姫が表舞台から姿を消して19年が流れた。最愛の夫・郷鍈治(享年55)の死がきっかけだった。火葬場で棺にすがって「私も一緒に焼いて!」と叫んだという。その後、幾度も復帰説が流れたが幻に終わった。そのちあきが、郷の命日にあたる9月11日に墓参した姿を「週刊新潮」が撮影した。

ちあきなおみ「陰りと暗さ」ついて回る実父への憎悪

「花束と線香を静かに置いた彼女は、墓石の掃除を終えると、買ってきた大きな花束を地面に広げた。(中略)やがて、墓に眠る郷に向かって、何かを語りかけるかのように、静かな墓地に小さく嗚咽を響かせたのだった」(新潮)

   喪服姿で花を花立てに挿しながら、いまにも泣き崩れようとしているちあきの姿が切ない。だが、新潮によれば、ちあきが引退した理由はもう一つあるというのだ。それは彼女が「私が13歳の時、病気で死んだ」と周囲に語っていた実父の存在だった。

   ちあきは東京・板橋で三人姉妹の三女として生まれたが、父親は定職をもたず、妻が働いて糊口を凌いでいた。父親もかつては歌手を目指したほどの芸能好きで、ちあきを溺愛し、幼いときからタップダンスを習わせ、4、5歳の頃には米軍基地のステージに立たせた。

   しかし、父親は17歳の若い女に惚れて、ちあきたちを捨て去ったのだ。一緒になった彼女も働きのない男に苦労させられ、夜の店で働いて生まれた子供2人を育てたという。そのうえ、この男には窃盗癖があり、前科10犯を優に超え、刑務所と娑婆の間を行ったり来たりする人生を送る。80歳を超えてもスーパーでものを盗み、交番に突き出されたそうだ。2番目の妻は離婚しようと思ったがなかなか男のほうが同意せず、ようやく離婚できても行き場のない男の面倒を見て、2007年11月に病院で死んだときも看取ったと語る。

   ちあきにとっては消し去ってしまいたいほど憎かった父親であったが、父親のほうは出所すると決まってちあきの居場所を探し当て、何度も訪ねてきていた。そうした父親のカネの無心から彼女を守り、防波堤になっていたのが夫の郷だった。郷の死で、ちあきは最愛の夫と自分を守ってくれる防波堤を同時に失ってしまった。いつ犯罪常習者の父親のスキャンダルが明るみに出るかも知れないと怯え、それもあって引退したのではないかと2番目の妻は推測している。

   ちあきには、宇多田ヒカルの母親で、「怨歌の女王」といわれた藤圭子とは違った陰りが容姿にも歌声にもある。子どもの頃の貧しさは同じだが、藤は歌手として成功するにしたがって暗さが薄れていった。だが、ちあきは「喝采」でレコード大賞を受賞した後も、張り付いた暗さは消えることがなかったように思う。ちあきが唄う歌には、この父親への怨みと子どもの頃の地獄のような日々が色濃く反映しているのかも知れない。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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