8月15日の夜、新宿の「ロフト・プラスワン」で友人が開催した終戦記念日シンポジウムに出演した。開口一番、友人が「新聞は死んだ」といった。この日は新聞休刊日であった。私が知る限り、この日に新聞が休んだことなどなかったはずだ。新聞を休刊することが悪いというのではない。なぜこの日にしたのか。東日本大震災に原発事故が起こり、「第2の敗戦」とまでいわれるいま、66年前の時と比べて論ずることはいくらでもあるはずだ。それとも新聞にとっては、もはや戦争は終わってしまった過去の些事に過ぎないのだろうか。こうした新聞の「役割放棄」を、亡きノンフィクション作家・本田靖春が見たら何というだろう。
シンポジウムで私は、第1と第2の敗戦には決定的な違いがあると前置きして、本田の「戦後―美空ひばりとその時代」(講談社)から、以下のところを読み上げた。
「人びとは飢えていた。私の場合は、住む家がなく、納屋の暮らしから戦後の生活が始まった。着る物がなく、履く靴がなく、鞄がなく、教科書がなく、エンピツがなく、ノートもなかった。
しかし、人びとは桎梏から解放されて自由であった。新しい社会を建設する希望に満ちていた。そうした可能性の時代の子として美空ひばりはいた」
第1と第2の決定的な違いは「希望」である。貧しく食べるものも着る物も住むところはなくとも、桎梏から解放された青い空がそこにはあった。今日より必ず明日はよくなるという確信が多くの国民にはあったのだ。
3・11以降はどうだろう。希望はあるだろうか。残念ながらどこを見渡しても、いまのところ見いだすことはできそうもない。それでも日本人は立ち上がるとは思うが、それは、これまでのように無駄に無駄を重ねた虚栄の豊かさに回帰するものであってはならない。原発を止めて再生可能エネルギーにすればいいという単純な話ではない。日本人が歴史上初めて、根底から価値観の転換を迫られているのだ。そんな話をしたが、どれだけ聞き手に伝わったのか心許ないが。
最終目標は裁判無罪、党員資格奪還、そして総理
さて、今週は各誌こぞってポスト菅について特集を組んでいる。いまのところ本命・野田佳彦財務相(54)、対抗・鹿野道彦農水相(69)らしいが、それ以外にも海江田万里経済産業相が名乗りを上げ、多士済々ではなく、ドングリの背比べである。
野田は大連立を掲げ、財務省が目論む大増税に踏み切る可能性が高い。「週刊文春」によると、野田総理になれば自民党の谷垣禎一総裁を副総理に迎え、公明党の山口那津男代表は厚労相に、注目される環境相に小池百合子総務会長を据える可能性があるという。このままスンナリ野田総理が実現するはずはないが、誰になっても軽量短命内閣に違いない。「あーあ、民主党 こんな奴らが総理かよ」(文春)、「ショボすぎる『新総理・野田佳彦』」(週刊現代)という見出しが当をえている。
そのうえ、またぞろこの男が次期総理のキーマンになり、代表選に名乗りを上げた候補たちは次々に頭を下げに行っているという。小沢一郎である。160人といわれる手勢をもつが、自派には適当なタマがいないため、今回は自分のいうことを聞く候補を物色しているといわれる。当初、小沢は海江田を買っていたようだが、大臣の辞めどきを誤り、その上、委員会で泣き崩れて男を下げてしまったために支持を取り下げられた。だれを支持するかは直前まで決めない方針らしいが、「週刊新潮」は小沢の狙いは来年の代表選だと読む。刑事裁判で無罪になり、党員資格を奪還して、代表そして総理を目指すというのである。