「あ~、わかってくれとは言わないが、そんなに俺が悪いのか」
これは、菅直人首相のカラオケのおはこ(十八番)、チェッカーズの「ギザギザハートの子守歌」の一節である。首相公邸で毎夜、伸子夫人の前で口ずさんでいるかもしれないと、8月4日付け(2011年)の「スポーツニッポン」のコラムに書いてある。しかし、心をギザギザにされているのは、こちとら国民のほうだと半畳を入れたくもなるではないか。
「週刊新潮」によれば、伸子夫人がベビーカーや幼児用の布団を公邸に運び込ませているという。長男の嫁が10月に出産予定なのだが、そこでやはり10月までは続投するつもりだとの見方が広がっているそうだ。
そんな菅に対して、ようやく小沢一郎が最後通牒を突き付ける腹を決めたと3日の産経新聞が書いた。
「民主党の小沢一郎元代表が、8月31日の会期末までに衆院に内閣不信任決議案を提出する意向を固めたことが2日分かった。(中略)党執行部が発議に難色を示したならば、小沢氏は新党・新会派結成を視野に賛同者を募る構えだ」
菅直人の国民への裏切り行為は枚挙に暇がない。「週刊文春」は米軍が福島第一原発爆発直後に、UH-60ヘリや海兵隊のC-12 軽輸送機を飛ばして独自に調査し作成した資料が、震災5日後には菅の元へ届けられていたはずだと書く。そこには、飛散した放射線が24時間後には首都圏へ、48時間後には首都圏全域に広がっていることが表にしてあるのだ。しかも放射線ビームに襲われたエリアは、たった4日間で総被曝量が3ミリシーベルトを超える可能性を指摘しているのに、菅は「何も手を打たなかったのである」(文春)。
さらに菅は、最初の住民の避難地域を半径3キロ、10キロとしかせず、3号機の爆発を受けてようやく3月15日に、20キロ圏内から30キロ圏内は屋内退避指示と、場当たり的な対応しかしてこなかった。このとき、実質的に米軍との窓口を担当していたのは細野剛志首相補佐官(当時)だった。細野はすべての情報を菅に伝えていたのだろうかと、文春は疑問を呈している。福島県200万人を見捨てた菅直人は、即刻首相の座を辞し、四国八十八か所ではなく、福島の人々にお詫び行脚をいますぐ始めるべきであろう。
野球バカ伊良部秀輝の怒りと悲哀
さて、今週は文春と「週刊新潮」が合併号で、読み応えのあるワイド特集を競っている。数の多さでは文春が圧倒。渦中の人間たちの「その時」を目撃した40のエピソードを集め、読ませる。
首を吊って自殺した伊良部秀輝(享年42)は、輝かしい投手人生とは裏腹に、実の父親との別れや逮捕歴2回、4度の飲酒トラブルと、私生活は荒れ果てていたようだ。それでも、日本での活躍をひっさげてヤンキース入りを果たし、2002年には星野監督率いる阪神に入団し、03年には13勝を挙げ、阪神の18年ぶりのリーグ優勝に貢献した。だが野球への未練たちがたく、米国と日本の独立リーグを渡り歩き、本気でプロへの復帰を願っていたという。練習もしていたようだが、最近は腱鞘炎がひどくなり、思い通りの球が投げられなくなり、落ち込んでいたそうだ。
野球バカといってしまえばそれまでだが、伊良部が絶頂期のときでさえも、私には、いつも自分の人生に対する怒りと悲哀が彼の周りに付きまとっているように思えた。そうした思いを、彼は誰にも語らず、またわかってくれる人もいなかったのかもしれない。記憶に残る野球選手の一人である。
その他には、平成9年に渋谷・円山町で春をひさいでいた東電OLが何者かに殺されたが、彼女は勝俣恒久企画部長(現会長)の下にいて、反原発派で、勝俣と激しく対立していたという話。
インテルの長友佑都の家は幼い頃はかなり裕福だったが、父親が博打好きで借金を抱えて蒸発して以来、かなりの苦労をしてきたという話。
吉永小百合が58歳で見せた水着姿と見事な泳ぎ。山口百恵と三浦友和の「初デート」を演出した友和の親友の話。
PL学園の清原と桑田が「運命のドラフト」で、指名された2人の「その時」を見ていたチームメイトの話など、バラエティに富んでいて、節電の夏に読むのには格好のワイド特集だろう。