ドナルド・キーン教授89歳に日本永住決意させた「震災被災地の人々」

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   福島の原発事故で日本を離れる外国人が多いなか、日本文学を世界に広めたドナルド・キーン教授が、東日本大震災を機に日本国籍を取得し、日本に永住する決意をした。

   大震災の時に日本にいたキーン教授がテレビを通じて感じたのは、過酷な現実を前にしても冷静で我慢強く節度のある人たちの姿の尊さ。「こういう人たちと一緒にいたい」と感じたのだという。

   89歳になった今も、正岡子規の評伝の執筆に、時に涙しながら取り組んでいるという。キーン教授に国谷裕子キャスターがニューヨークでインタビューした。キーン教授の心を捉えて離さない日本人の魅力とはいったい何だろうか。

「共に生き、共に死にたい」

   キーン教授が著わした日本に関する著書を上げるときりがない。日本語で書かれたもの、英語で書かれたもの合わせると40点以上にのぼる。『日本文学史』『百代の過客 日記に見る日本人』『明治天皇』『日本文学は世界のかけ橋』…。日本文学に最初に出合ったのは『源氏物語』だった。コロンビア大学在学中の18歳の時で、日米開戦の前年にあたる。好戦的な日本人観を持っていたキーンは、英訳された『源氏物語』を読み、独特な日本人の美意識に感動して日本語のトレーニングを始めるとともに日本研究に取り組む。

   翌年、日米開戦ともに情報将校として海軍に勤務。アッツ島や沖縄などの激戦地で、日本人捕虜の尋問や押収した日本人兵士の日記の翻訳にあたった。そうした中で、深い感銘を受けたのは、死を間近にし、遠い故郷を懐かしむ気持ちが綴られた日本人兵士の日記。むさぼるように読んだという。『私と20世紀のクロニクル』には、その時の心境を書いた一文がある。

「これらの日記は時に耐えられないほど感動的で、一兵士の最後の日々の苦悩が記録されていた……私が本当に知り合った最初の日本人はこれらの日記の筆者たちだった」

   キーンにとって「日本人とは何か」という不可思議なナゾは深まるばかりで、戦後、日本研究に一層のめり込んでいく。その謎を解く手がかりとして注目したのが戦中、戦後の作家たちの日記だった。なかでも最も共感したのが高見順の日記。東京大空襲直後、母親を疎開させるために上野駅にやってきた高見が見たのは、家を焼かれ焼け野原となった東京から逃れようとする人々。極限状態にもかかわらず、がまん強く節度を守る人々を見て綴った次のようなくだりだったという。

「私の眼にいつしか涙が湧いていた。いとしさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った…」

   キーン教授は「日記には探し求めていた日本人論の手掛かりが潜んでいた」という。

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