東日本大震災当日の東京の帰宅困難者は300万人だったといわれる。鉄道が止まり、携帯はつながらず、 幹線道路は歩いて帰宅する人であふれ、車は大渋滞。しかし、これは首都直下地震のときどうすればいいかを教えてくれてもいた。
直接被害なくても3・11都心大混乱・大渋滞
横浜に住む会社員の中島美砂子さんは、都心の会社で地震を受けた。震度5強の揺れに家族を心配した。夫は関西に出張中で、横浜には小学生の息子がひとりだ。携帯はつながらない。
「行かなくちゃ」
午後5時に退社して、7時半に渋谷からバスに乗ったが、1時間で400m。バスをあきらめて8時40分に歩き始めた。横浜まで23キロだ。歩行者が車道にまであふれていた。
「止まると後ろから押される。赤信号でも前へ押し出された」
午後11時、飲まず食わずでハイヒールのまま歩き続け、足の感覚がなくなってきた。寒さと疲労で道端にしゃがみ込む人が大勢いる。横浜市へ入ったところで、ようやく息子が学童保育にいるとわかった。息子に会えたのは午前零時すぎだった。
あの日、歩いた人たちは中島さんと同じだったろう。帰れない人もたくさんいた。都や区は帰宅者に水道やトイレの場は用意したが、宿泊までは考えていなかった。大田区は最終的に46か所の施設を用意して毛布や食料を提供したが、本来は地元民のための備蓄だった。
文
ヤンヤン