東日本大震災では多くの学校や幼稚園・保育所が大津波にのみ込まれたが、実は岩手、宮城、福島で保育中の子供の犠牲はゼロだった。保育士たちが日ごろから避難方法やルートを検討し、避難訓練を重ねてきたからだが、その綿密さ、真剣さは誠に見事で、犠牲者ゼロは決して奇跡ではないことが分かる。
畑横切る近道避難を農家と事前交渉
岩手県・野田村の野田村保育所。海岸から数百メートルのところにあって、子供90人あまりを預かっていた。主任保育士の廣内裕子さんはこう話す。
「揺れている最中から子供たちにジャンパーを着せて、赤ちゃんはオンブして、避難の準備ができ次第に外に出しました。自分で自分を守れない子供なので、私たちが『絶対守ってやる』という気持ちで連れ出しました」
廣内さんたちは普段から避難ルートの検討をおこなっていた。決められていた道には急な上り坂もあって、小さな子供や赤ちゃんをおぶってでは間に合わない。そこで、畑を横切る近道を探し出す。畑を所有する農家とも交渉して、訓練の時でも横切る許可は取ってあった。
「津波が来ても来なくても逃げると日ごろから決めていました」(廣内裕子さん)
宮城県名取市の閖上保育所は海抜ゼロメートル、海岸から500メートルにあり、周囲に高台はない。町は避難先として100メートルほど離れたアパートの3階を指定していたが、保育士たちはあそこでは危ないと考えていた。狭いうえに、そこまで津波が来る可能性もあると考えていたからだ。佐竹悦子所長らは独自に避難場所・ルートを決めた。
「2キロほど離れた小学校を避難場所と考えていました。ただ、そこまで子供たちは走れない。そこで、保育士たちのマイカーに分乗して逃げることにして、あの日は1台のワゴン車に15人も乗ったり、荷台にも乗り込んで、事前に調査しておいた渋滞しない裏道を走りました」
かくして、保育所の子供54人から犠牲者は一人も出なかった。
「3つの避難鉄則」実践した先生たち
こうした奇跡的な避難について、防災研究第一人者の群馬大学・片田敏孝教授はこう話す。
「避難には3つの鉄則があります。ひとつ目は『いち早く逃げる』、2つめは『避難場所・ルートは自ら考えておく』、3つめは『たとえ津波が来なくても避難する』です。保育士さんたちはこれをすべてやっていた。犠牲者がゼロだったのは『奇跡』なのではなく、保育士さんの『努力』のたまものです」
保護者たちも「もし先生たちがいなければどうなっていたか……」と感激する。
「備えあれば憂いなしといわれますが、中途半端な備えじゃダメだということが、よう~く分かりました」
司会のみのもんたも感心しきりだった。