原発を目の前に考えた…気軽に「頑張って!」と言えない福島の絶望

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   4月13日と14日(2011年)にかけて、福島第1原発へ行ってきた。東北新幹線で郡山まで行き、そこからレンタカーを借りた。

   快晴、5月中旬ぐらいの陽気。桜も7分から8分咲き。1年でいちばん美しい季節を迎えようとしている。途中、国の天然記念物に指定されている「三春滝桜」を見に寄った。樹齢1000年以上の古木だが、紅枝垂桜だから、満開は今月下旬ぐらいになりそうだ。いつもなら30万人もの観光客でにぎわうそうだが、今年はそうはいかないだろう。しかし、谷あいに1本だけ立つ滝桜は、福島県民の不屈の意思を表すかのごとく、ひっそりとだが、たくましく満開の時を待っていた。

テレビも新聞も本当のこと教えてくれない

   今回は、某女性週刊誌の取材に行く友人に同行してだ。依頼された理由は、私が高齢者だから、原発周辺で多量の放射能を浴びても発ガンする30年後には生きていないからいいだろうというものだろう。

   ま、いいか。気軽に引き受けたものの、普段着のままで行くわけにはいくまいと、捨ててもいいように、トレンチコート、ブレザーとユニクロで買ったフリースのズボンに野球帽。友人が買ってくれた白い防護服と防塵用のマスク。それにガイガーカウンターを3台。

   三春町あたりは余裕だったが、田村、浪江、双葉と進むにつれカウンターの目盛りが上がっていく。20㌔のところに検問所はあったが、取材ですというと「気をつけてください」とあっけなく通してくれる。

   1日目は原発まで5㌔地点で日が暮れてきたので、そのままいわき市へ。夜、ホテル近くの居酒屋で会った中年の婦人が面白いことを言っていた。彼女はこのところ毎週、週刊誌を大量に読んでいるという。

「だってテレビは本当のことを言ってなさそうだし、新聞も真実は書いていない。いわきの市長はだらしがなくて、地震と津波が起きたらさっさと逃げ出してしまった。読むと怖くなるけど、週刊誌情報がいちばん信頼できそうだから」

   居酒屋の主人も、地震で酒瓶の多くが壊れてしまったが、何とか再開することができた。だけど、大きな余震は毎日起こるし、いつ避難命令が出るかわからない。そうなったらここで店をやるのは無理だと思うと話してくれた。

   彼女、彼がともに言うのは、原発に関する正確な情報を発表しないで、テレビであれこれ言うだけ。だからこれからどうしたらいいか全く目処が立たないということだった。これは、計画退避地域に指定された30㌔近くにいる若い酪農家たちも同意見で、このままでは多くの牛たちを野垂れ死にさせることになると、政府の対応策の遅れに厳しい意見を言っていた。

福島県が消えてなくなるかもしれない

   翌日(14日)は一気に第1原発まで駆け上がる。途中、震度4の地震があり、それでなくても地盤がゆるんで道路のあちこちが歪み、陥没しているところを避けながら車を走らす。

   福島第1原発の標識を矢印方向へ曲がり、上っていく。密閉され、外の空気を入れないためにクーラーをつけない車内でも、カウンターの目盛りは上がり続ける。原発の入口で完全防護服に身を包んだ人たち(東電関係者だろう)に制止されたときには100マイクロシーベルト/毎時を超えていた。

   そこ以外では、車外と土壌の放射線量を測ってきたのだが、さすがにここでは外へ出る勇気が出なかった。ちなみにそれまでの最高値は、10㌔圏内で観測した土壌の800マイクロシーベルト/毎時だったが、それをはるかに超えることは間違いない。

   南相馬市の津波の現場では文字通り言葉を失った。有名無名を問わず、多くの人は自分が生きてきた証を次の世代ぐらいまでには残しておきたいと思うものだろう。だから写真を撮ってアルバムに貼り、旅の記録として人形や焼き物を持ち帰る。

   そうして長い間積み重ねてきた「思い出」を、津波は一瞬にして跡形もなく消し去ってしまった。何人もの人たちが、自分の家の痕跡や亡くなった人の思い出の品を捜そうと、泥で固められてしまった上を歩きながら、わずか1か月ほど前には、そこで生活し、笑い、泣いてきた家のわずかな名残りを見つけようと歩いていたが、何一つ見つけることができないとため息をついていた。

   この日の朝刊で、菅直人首相が松本健一内閣官房参与に対して、「原発周辺は20年、30年は住めない」と話したという記事を読んだ。私のような暴走老人でなくとも、目の前に菅がいたら殴ってやりたいと思うはずである。後であわてて否定したが、それに近いことは間違いなく言ったはずだ。宰相としてなどというより、人間として愚劣である。

   私の友人はいわき市と関係が深く、会津で避難所暮らしをしている市の人たちのボランティアをしているが、彼は私に早急に原発事故が収まらなければ、福島一県が消えてなくなるかもしれないと心配している。

   今回の土壌で測った値は、残念ながら私の予想を超えたものであった。浪江市などで出会った警察官たちは、ガイガーカウンターを持ちながら計測し、それがテレビやラジオで流されている。だが、私が見ていた限り、彼らの測っているのは空中のシーベルト値で、土壌を測っているところは見なかった。

   政府が発表する数値と実際計測してみた値が違うとしても、当面は影響がないのか、10年、20年後に何らかの影響が出てくるのか、私のような素人が判断できることではない。だからといって、「週刊アサヒ芸能」で評論家の副島隆彦氏が、第1原発に行って20キロ圏内でも年間放射線量は4ミリシーベルト(マイクロではない)ぐらいだから、子どもたちに悪い影響を与えることはない、「私は大丈夫だと、素人だが考える」と言い切る自信は毛頭ない。

「二度と家へ帰れない。それはレッキとした事実なんです」

   「週刊ポスト」が「週刊現代」を原発危機を煽るやり方だと批判し、「週刊新潮」がこれを取り上げている。新潮は放射能の怖さを煽り立てるメディアのせいで風評被害が一層広がっていると、ポスト側に立つ。

   だが、わずかな日数だが現地を回って、東電などの作業員の緊迫感や県民の不安を感じてきた実感からすると、「サンデー毎日」で内田樹氏が言っていることの方が正論だと思うのだ。

「どうしていいかわからないときは、直感的に自分で判断して行動するしかない。ことリスクに関しては、リスクを過大評価して失うものと、過小評価して失うものでは、失うものの桁が違います。『想定外のこと』が起きるかもしれないと思っている人間の方が、『想定外のこと』は起こらないと思っている人よりは生き延びる確率は高い。単純な話です」

   原発周辺の住民やその子どもが、避難所やツテを頼って出てきた東京で「放射能差別」されることまで起きているのだ。 週刊現代の「福島が殺される」のなかに、大熊町の避難民のこういう言葉がある。

「ある雑誌が『危機を煽るな』って書いてありましたが、気休めにもなりません。煽ろうが煽るまいが、私たちは二度と家へ帰れない。それはレッキとした事実なんです。自分は安全なところにいて、まるで私らの味方のような顔をして『放射能は危険じゃない』と言い張る人たちが、いちばん冷たく思えます」

さらに恐ろしいシナリオの始まり

   また、東電関係者の次の言葉は、命よりカネが大事な国や東電、それに福島原発の供給する電力で安穏に暮らしてきた東京都民が真剣に受け止めなければならない。

「国と東電は、避難範囲をこれ以上広げたくない。ましてや『距離よりも風(放射線の拡散で重要なのは、距離ではなく、風向きと地形だというコメントが前にある=筆者注)』という説も絶対採用したくない。なぜなら、避難範囲を10km広げることで、補償金額は莫大に跳ね上がるからです」

   被災地の人たちのなかには、自分の身に起こった天災は苦しく悲しいけれど、時間が解決してくれるかもしれないと前向きに考えている人も多いようだ。

   しかし、人災である原発事故は、気軽に「頑張って!」といえない絶望感を広げている。地元にもほとんど来ないで、テレビで避難指示を出せばことたれりとする政治屋たち。透明性など欠片もなく、ただおろおろする東電首脳陣のていたらくは、「週刊文春」の「東京電力『福島第1原発』の叛乱」に詳しい。

   ここで、第1原発の現場で必死に闘っている吉田昌郎所長が、アメリカNRC(アメリカ原子力規制委員会)が提案してきた窒素封入(注入)をやることに反対し、「本社はいつも、がんばれ、がんばれ、と言うだけだ!」「もう、やってられねえっ!」と叛乱を起こしたというのだ。決断できない菅首相に業を煮やしたアメリカが介入してきたことで、現場が一枚岩でなくなってきている。これこそさらに恐ろしいシナリオの始まりではないのか。

   人影が消えた浪江町役場の周囲には、ほぼ満開になった桜が青空をバックに美しく咲いていた。その花の下にこういうスローガンを書いた横幕が張られていた。

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