東日本大震災で児童・生徒273人が死亡、838人がいまだ連絡がつかない。生き残った子らも多くが肉親をなくし、また避難で友達と離ればなれ…。そうした心の傷をいかに癒すか。教師たちの手探りが続いている。
「ママのこと話しないで」
町が壊滅した宮城・名取市の館腰小学校の3年生、宮下奈月ちゃん(9)は、避難所になった学校に兄(14)、姉(12)、祖母(67)の4人で身を寄せた。母親は地震のあと車で家に向かう途中で不明になった。
奈月ちゃんははじめ、避難所の電話から母の携帯にかけては、話し中なのを「どうしたの」と不思議がっていた。ところが、仙台の親戚に身を寄せるようになって変わった。母の話をしなくなった。先週、母親が乗っていった車が見つかって、付いていたキーは姉には宝物だが、奈月ちゃんは触ろうとしない。
祖母は「ママのこと話しないでという。心配なんですよ、泣くなら泣けばいいのに抑えているのが」という。
宮城・女川町の女川第2小学校では、児童217人の9 割と教師の半数が被災した。朝10時になると青空教室が始まる。学校は災害対策本部と避難所になっているからだ。午前中の2時間、お話やゲーム、合唱などをする。被災3日目から始め、100人以上がいたが、避難所を出て行く家族が増えて日に日に減っている。自らも被災して学校に寝泊まりしている高橋英里先生は、避難所を回って青空教室に来なかった子どもに声をかけて歩く。 学校は高台にあるから、子どもたちは家が流されるのを見ていた。
「大人だってたまらない光景でしたから、これ以上の悲しさはなかったんじゃないか。吐いたりお腹が痛くなったりもあった。できるだけそばにいてやりたい」
伊藤勝彦先生は卒業した臼井萌々花ちゃんが気になる。明るさがなくなった。仲の良かったクラスメートが大阪へ行ってしまったのだ。
「さよならも言えなかった」
同級生の3分の1が町を離れた。この家族もそうなりそうだ。萌々花ちゃんは「覚悟はできてる。離れる覚悟」という。伊藤先生は「がんばれとしかいえない」と言葉少なだ。