「スパモニ」のシリーズ「昭和からのメッセージ」は、高度経済成長をけん引した経営者たちで、71歳で第4代国鉄総裁に就任、「新幹線の父」と呼ばれた十河信一だ。
十河が総裁になったのは高度経済成長のとば口にあたる昭和30年。この年の5月11日に国鉄・宇高連絡船「紫雲丸」の沈没事故で168人の死者を出したばかりだった。前年の29年9月26日には青函連絡船「洞爺丸」が台風で座礁転覆し、死者・行方不明1155人というタイタニック号に次ぐ海難事故があった。国鉄にとってはきわめて厳しい中での就任だったのだ。
東京・大阪を4時間で結べ
十河に課せられた使命は、飽和状態だった東京―大阪間の大動脈・東海道線に新たな線路の建設と新型高速列車の開発による国鉄の起死回生だった。十河は就任挨拶で、「線路を枕に討ち死にする覚悟で引き受けました」と述べている。
戦前に南満州鉄道の理事をしていた十河の頭の中には、超特急の腹案がすでにあった。昭和14年に計画された東京―大阪間を4時間で結ぶ「弾丸列車計画」で、その名も新幹線だった。しかし、昭和18年、戦局悪化で計画は立ち消えになった。
十河は「デゴイチ」(D51型蒸気機関車)を設計し、高速鉄道時代を見越して振動の少ない高速台車の研究に取り組んでいた鉄道技術研究所の島秀雄に白羽の矢を立てた。
「俺がカネと政治は引き受ける。君は世界最速の新幹線に力を発揮してくれ」
世界の列車の最高速度が150k前後の時代、東京―大阪間4時間だと時速200kを超える必要がある。島は躊躇したらしい。
このときの島の言葉が残っている。
「一つの手立てさえ見つかれば『出来ます』と言える。あらゆる筋道を潰さないと『出来ない』とは断言できない」
さらに人材が結集された。零戦の開発に携わった元海軍技術廠の松平精、特攻機「桜花」を設計した三木忠直、陸軍科学研究所で電気信号のエキスパートだった河辺一…。
昭和34年には国会で新幹線建設予算1972億円が可決。翌月に起工式が行われ、新幹線開発の目標を東京オリンピックが開催される5年後の39年とした。
悩むとか反省するとかなかった
時速250kの壁を超える格闘が始まった、島の指揮で河辺がATC(自動列車制御装置)を開発するなど、スピード、安全、正確の3条件がすべて揃った。この間の模様を開発に参加した久保敏は次のように語る。
「皆が向いている方向、ベクトルが一致していた。後ろを向いて走るのではないんですよ。悩むとか、反省するとか、楽しいとか、苦しいとか考える暇はなかった」
新幹線は東京オリンピック開催9日前の39年10月1日、東京―大阪間で開業した。この時、フランス国有鉄道の副総裁が語った言葉が印象的だ。
「世界のすべての鉄道は日本国有鉄道に感謝しなければならない」
スタジオではタレントの松尾貴史が「皆が共通したイメージを持って進んでいた時代があったなと思うと、僕らもできないはずはないなと感じる」と語った。
「週刊朝日」編集長・山口一臣「今はできない理由ばかりを考える人が多すぎる。できるという前提でものを考え進む力を学ばねばいけないですね」
技術立国を目指す土壌はしっかりある。あとは今の苦境を乗り切ろうという政官財の一致した心構えだけか……。