いじめ問題大キャンペーン中の「スッキリ!!」。本日(2010年11月12日)のテーマは「いかにいじめを克服するか」である。勇気を出して、いじめてくる人にやめてくれと言ったり、学校を捨てホームスクーリングをしている子どもたちなどの例が紹介された。
「克服」という言葉の違和感
しかし、「克服」という言葉は、「いじめ」に使うには若干座りの悪さを感じないでもない。人は「弱さ」「おそれ」「病気」などを克服する。そうしたコロケーションからいって、克服すべき問題というのは、多分に本人に内在するイメージがある。
何年も前だが、別のテレビ番組でいじめが取り上げられていて、やはり「克服」例が紹介された。それは、よりテレビ的な――ダイエットしてキレイになって見返してやったとか、ブルワーカーで鍛えて強くなったとか――類であったような気がする。
それに対して、ゲストの女性(子どもをいじめで亡くし、いじめ問題に取り組んでいる)が、テレビではちょっと見ないような勢いで怒りだした。いじめを受けてる側がいじめのせいで変わる必要などない。それを美談のごとく、推奨するかのように取り上げるのは間違っている。いじめの原因はいじめられてる側にない。その子たちに努力や勇気を求めるな。問題はすべていじめてる側なのだから――といったことであった。
たしかに、「いじめを克服」するといった言葉や事例を見ると、それはいじめられてる側にも問題はあり、変わらなきゃいけないんだという無意識的な意識の現れなのかいなかといった問題がトラウマのようにフラッシュバックし、ちょっと考えてしまうところなのだ。