マンガで原爆描こう…母親の遺骨に腹立って
のちになって、手塚治虫のマンガ「新宝島」を持ってる人がいた。これをキッカケにマンガを読むようになった。やがて自分でも描くようになって、1961年22歳で上京、2年後にプロデビューする。しかし、「原爆」は描かないと決めていた。
「新聞記事も『原爆』という文字を見ると読まなかった。すさまじい姿と死体が目に浮かび、死臭までが押し寄せてくるので」
1967年に母親が60歳で死んだ。だが、「火葬したら、骨がないんだ。放射能で骨までスカスカ。原爆の野郎は大事なおふくろの骨まで取っていたかと、腹が立ってね。マンガでやってやるって……」
まず、「黒い雨にうたれて」。原爆で家族を失った男がアメリカ人に復讐する物語だった。その後も原爆を描いた。そして1973年に少年ジャンプで「はだしのゲン」連載。しかし1年で打ち切り。政治的な圧力があったらしい。
その1年後、偶然単行本化ができた。これが学校図書館に置かれるようになったのは、広島県被爆教職員の会の奔走だった。いまはアメリカでも読まれている。中沢さんは昨年、白内障で筆を置いたが、学校などで話を続けている。
赤江「ゲンは中沢さんそのものなんですね。戦後、妹が栄養失調で亡くなって、いまでも幼児を見ると、その記憶が蘇って涙が止まらないと」
作家の若一光司「この本がなかったら、若い人たちは原爆を知らないかもしれない」
小木逸平アナ「わたしも学校で読んだ」
弁護士の大沢孝征もどうやらその世代らしい。
赤江「これでもマイルドに描いているんだそうです。国防や外交の主張の前に、これを読んでもらいたい」
文
ヤンヤン| 似顔絵 池田マコト