遅筆堂「井上ひさし」の苦闘 やっと書けた「ある台詞」

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   戦後日本を代表する劇作家、井上ひさしが聞く人の心に深く刻み込まれる台詞、ことばを残してこの世を去ってから、3か月がたった。

   井上は『遅筆堂』と自らを呼ぶほど、台詞にこだわり抜いた。一つひとつの台詞にどのように悩み、どんな思いを込め、何を伝えたかったのだろうか。

   井上が執筆当時に書き残した手紙やメモ、関係者の証言から、代表作に残した「珠玉のことば」を生むまでの苦悩、熱い思いを取り上げた。

戦争責任と庶民

   小説家、放送作家、劇作家…。多彩な顔を持つ井上が75歳で亡くなるまで、心血を注いだのが劇作家としての仕事だった。キャスターの国谷裕子が井上戯曲の特徴を次のように語った。

「笑いや日本語の面白さを盛り込んだ喜劇、多くの作家をふくめ、多彩な人間の生き方をユーモラスに描いた作品。そのいずれにも深いメッセージが込められていることに気付きます」

   戯曲の中でも、井上がもっとも力を注いだのが、原爆や戦争責任といった戦争をテーマにした作品。1980年代半ばから増え、病床で肺がんと戦いながら考えていたのは沖縄をテーマにした作品だったという。

   終戦当時は10歳の少年だったはずだが、まだいたるところで見聞できた戦争の悲惨なありさまが、多感な少年の心に消し難い想いとして刻まれたのだろうか。昵懇だった一つ違いの大江健三郎にも、やはり「ヒロシマ・ノート」「沖縄ノート」の作品がある。

   戦争をテーマにした作品で井上は、辛い戦争の体験をくぐり抜けながらも、庶民の屈託のない笑いと涙、弱さと強さを生き生きと描き、数々の名台詞を残した。番組が取り上げたのは、代表作「東京裁判三部作」。戦時中、政治、軍事の頂点に立ちながら、戦後、東京裁判の訴追対象にならなかった昭和天皇が、人間宣言をして地方巡幸した時の話だ。

   天皇の巡幸の宿泊先となった、ある家に巻き起こる騒動がコミカルに描かれているのだが、物語のクライマックスはこの家にもあった戦争の辛い爪痕。主人が天皇の代役となって巡幸の予行演習を行なうが、天皇になりきっている主人に突然、恋人を戦争で失った長女が詰め寄る。その台詞が衝撃的だ。

「天子さまが御責任をお取り遊ばしたならば、その下の者も、そのまた下の者も、そのまたまた下の者も、そして私たちもそれぞれの責任について考えるようになります」 「『すまぬ』と仰せ出された御一言が、これからの国民の心を貫く太い芯棒になるのでございます。御決意を、御一言を」

   この台詞の部分は当初、恋人の戦死について天皇に尋ねる個人的なものだったという。

   井上作品を数多く手掛けてきた演出家の栗山民也は、井上が当時、別な台詞を生み出すにあたって人知れず苦しむ姿を見ていた。そんな井上が栗山のもとに送った100通を超す手紙が残っている。開演6日前の手紙には、土壇場で答えを見つけた興奮が次のように記されている。

「興奮して手が震えてしかたありません」
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