直木賞受賞の夜
仕方なく、本当に仕方なくではあるが、編集者の務めとして、身を挺して、芸者さんと一夜を過ごした。
その原稿は、井上さんをホテルに缶詰にして、締めきりギリギリに仕上げてもらった。だが、それ以降、いろいろな編集者から、「君か、井上さんを無理矢理帰して、芸者2人を独り占めした編集者は」といわれることになる。井上さんが、そのように話を作り替えて、面白おかしく話すものだから、すっかり、作家を大事にしない好色編集者という噂が、業界に広まって往生したこともあったが、こんな若造を、井上さんは可愛がってくれた。
「手鎖心中」で直木賞候補になった。井上さんから感想を聞かれた私は、生意気にも、ユーモア小説が直木賞を取るのは難しいのではないか、次回作で勝負しましょうなどと、いってしまったのだ。
発表の夜、新宿ゴールデン街の「ばあ まえだ」という店で呑んでいると、電話があり、名物ママが「元木電話だよ」と受話器をよこした。出てみると、「井上です。取りました」という弾んだ声が耳に飛び込んできた。一瞬、言葉を失い、少しして「おめでとうございます」と、返した。店中が「おめでとう」の大合唱になった。直木賞や芥川賞がお祭り騒ぎになる前の話である。
個人情報保護法案反対の集会にも、忙しい中、駆けつけてくれて、反対の弁を、わかりやすい言葉で、しかも力強く話してくれた。憲法を守ろうという「九条の会」の活動にも積極的だった。大事な人を失ってしまった。
(下へ続く)