「引退」元高見山は美声だった ハスキーになった稽古と苦労

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   <テレビウォッチ>日馬富士が大関初優勝を飾った夏場所最終日に、受付に座っていたのは、東関親方(64)だった。外国人力士の草分け元関脇高見山。今場所を最後に引退する。懐かしい顔がまた1つ消える。

苦労したんですよね

   日本へきたのは昭和39年(1964年)、19歳のときだった。元前田山の高砂親方に誘われ、「日本が見たかった」と母親の反対を押し切っての来日だった。羽田へ着いたときは大雪だった。「シャーベットかと、なめてみたが甘くなかった」

   あぐらがかけない、魚が食べられない、股割りが嫌だった。よく山手線に乗ってぐるぐる回った。「もう少しの辛抱だ」。ぶつかり稽古で涙を流したのを、東富士に「ジェシー、泣いてるのか」といわれて、「涙出ない。汗です」

   トレードマークのハスキーボイスも、稽古が生んだものだった。扁桃腺を切ったあとも休ませてもらえず、稽古を続けていてのど輪が入って、おかしくなった。高校時代はコーラスをやっていたという美声は失われた。

   初土俵から3年の67年3月新十両に。給料は5万円だった。翌年1月新入幕。72年7月の名古屋場所千秋楽、旭国を破って初優勝。外国人力士の初優勝でもあった。目に浮かんだのは「汗」。

   当時の朝日新聞は「国技である相撲で『外人』の、しかも平幕力士にかきまわされた......深く反省しなければならない」と書いた。そんな時代だった。

   巨漢高見山と小兵貴ノ花との一番も常に館内を湧かせた。80年9月場所の一戦、行事の軍配は貴ノ花だったが、物言いがついた。貴ノ花のまげが先に地に着いたとの判定で、高見山。これが2人の最後の闘いだった。

   「CM横綱」の人気は衰えなかったが、84年5月を最後に引退。「20年相撲をとっただけで満足です」。その引退と入れ替わるように、外国人力士の時代に入る。自らも親方として、小錦、曙を育てたのはご存知の通り。

   赤江珠緒が「愛されるキャラクターでしたよね」といったが、彼女の歳では知らないのでは?

   吉永みち子が、「ガイジンといわれて苦労したんですよね。それを努力と相撲への尊敬の念で愛情に変えていった」

   鳥越俊太郎は、「スポーツみなそうだが、相撲はハングリー精神がないと勤まらない。日本が豊かになってハングリーでなくなった。いま番付の上の方はモンゴルと東ヨーロッパばかり」といった。

   そう、ここのところを親方の口から聞きたかったね。

文   ヤンヤン| 似顔絵 池田マコト
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