忌野清志郎死去に思う 「今、媚びすぎてない?」

富士フイルムが開発した糖の吸収を抑えるサプリが500円+税で

   連休中の悲しいニュース。

   それは、忌野清志郎さんが亡くなったことではないか?

   私は当然リアルタイムの世代ではない。数々の名曲と言われる音楽が、私の生まれる前や物心つかないころに生まれていた。しかし、何十年か経っても彼の音楽はエバーグリーンであり、シンパシーを感じた。

   人々に影響を与えること。それはシンパシーではないか? 奇抜であっても、人々にシンパシー、共感を与えるというのは並大抵ではないと思う。歴史を振り返れば、市井に大きな共感を与えた作品が古典として残っている。数百年の時を越えても人々に普遍な「生き方」「愛」「友情」などのテーマを吐露しているものが、人々を魅了し続けている。どれだけ時が経ても、人々は同じ問題でもがき苦しみ、なんとか解決を得ようとする。

   私は音楽番組が出発だった。清志郎さんとは仕事をすることはなかったが、どこかでいつも音楽が聞こえていたような気がする。

   彼の歌には、ラジオが多く登場する。個人と個人をつなぐメディア。それがラジオだとラジオで仕事をしている限り、信じていたい。彼が亡くなった後、各局はこぞって彼の作品を流した。

   奇しくも時期はGW。普段はラジオを聞かなくなってしまった大人も、休日に、冗談のような悲しいニュースを、音楽を通じてラジオから知ったのではないか?

   そう。ラジオはいつも新しい音楽を教えてくれる。私は、小学1年生からエアチェックをしていた。当時、広島県の瀬戸内海に浮かぶ小島に住んでいた私にとって、いつもラジオは田舎には流れてこない空気を運んでくれる、世界の窓口だった。母の大阪の実家に帰る度に、小学生の頃からラジオにしがみ付いていた私。母の実家は、今の世田谷区の我が家とは比較にならないほど、『感度サイコー』な状況だった。

   しかし、個人と個人をつなぐメディアであるラジオは、ここのところずっとオサレ気味だ。家の中にもラジオがない家庭が増えている。

   そのような状況はラジオ好きとしては、大変悲しい。テレビ、ネット、新聞とはまた違う世界の窓口が、ひとつないからだ。

   しかし、この連休中に思ったのは、ラジオにとって厳しい環境の中、ラジオの方が人々に媚び過ぎていないか? ということだ。ラジオ人口が減って当然だ! とラジオ制作側が騒いで、「みなさん、なんとかラジオを聞いてもらえませんか?」というメッセージの番組を作り続けている気がする。直接的な利益がないものから、媚びへつらうモノに対する人々の反応は、誰しもが分かっているはずなのに。

『どうしたんだ? ヘヘイ、ラジオ!』

モジョっこ

姉妹サイト