問われているのは自らのけじめ
その上、「報道機関が誤報から100%免れることは不可能と言える」と開き直っているのは見苦しい。
週刊誌を含めた報道機関は捜査権があるわけではないから、100%の裏付けをとることが難しいのは確かだ。また、新聞テレビのように、記者クラブで昼寝をしていても、役人がレクチャーし、資料をそろえて配ってくれるわけではないから、自分の足ではい回って取材しなければならない。それに、雑誌の重要な役割は、疑惑段階から取材し追及していくことである。そのために、勇み足が過ぎて、訴えられることが多いのは事実である。しかし、だからこそ、できる限りの裏取りをし、記事にまとめるときも、細心の注意を払って書く努力をしてきたはずではないか。
そのようにして少しずつ築いてきた雑誌ジャーナリズムの信頼性を、一夜にして無にしてしまうようなことをしてしまった張本人がいう言葉ではない。
新潮は、「今回の誤報を反省し、得た教訓をいかに生かす」前に、自らのけじめをどうつけるのかが問われていることを忘れてはいけない。
これを書いているとき、ノンフィクション作家の佐野眞一さんから電話があった。佐野さんとも新潮について話し合ったが、彼も憤っていて、今回のタイトルは、「週刊新潮はニセ実行犯と共謀して、いかに読者をだましたか」とすべきだといっていた。その通りだと、私も思う。
今週は、他の記事に触れることができなかったことをお詫びしたい。