「雑誌を読まなければいけない」理由
魚住さんが書いた「野中広務 差別と権力」(講談社文庫)の中に出てくる麻生発言について、「ニューヨークタイムズ」東京支局支局長が魚住さんに取材を申し込んできた。麻生氏が、野中氏について部落との関係に触れた上で「日本の総理にはできないわな」と語った、としたくだりの裏付けをとろうとしていた。麻生氏は、2005年の衆院総務委員会で発言を否定している。同紙は、魚住さんを始め関係者を取材し、1月15日付でこう書いたのだ。
「もし野中広務氏が(8年前に)日本の首相になっていたとしたら、それは日本にとって、米国初の黒人大統領が誕生したに匹敵するほど意義深い出来事になっていただろう」
現首相にまつわるこれだけ重大な「言動」を、日本の新聞はほとんど報じなかった。「麻生首相に人権意識の欠片もないというのは恐ろしい事実である」(魚住氏)。雑誌を読まなければいけないというのは、こうしたことをいうのだ。
それに比べ、新潮の「朝日新聞阪神支局襲撃犯の告白手記」は、どうでもいい犯人の半生を語らせ、児玉誉士夫の名前まで持ち出したが、信憑性は薄まるばかりだ。もういい加減にしたらどうか。文春が「週刊新潮『実名告白者』の正体」で、元妻からの証言として、「また何を言い出したんだろう、という感じですよ。あの人がこんな事件をできるわけないじゃないですか。根はいい人なんですから」といわせている。
新潮では自称犯人が、「私は自分でやったことを証明するのがこれほど難しいとは思いませんでした」と弱音を吐いている。難しいことはない。その時撃たれて重傷を負った犬飼記者のところへ行き、一部始終を告白して首実検してもらうのだ。自分が犯した罪の重さを悔いているのなら、まず、被害者に詫びるのが、手記などを書くよりも先だと思う。