追悼・藤岡琢也「生き甲斐がひとつあり、親友がひとりいれば」

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   言葉を一つ。「生き甲斐がひとつあり、親友がひとりいれば、この宝に勝るものはない」

生き甲斐ってなに?

   亡くなった人をしみじみと送る「温故知人」が、俳優の藤岡琢也さんをとりあげた。昨年10月20日死去、享年76歳だった。

   独特の存在感と演技。ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」など、「ニッポンのお父さん」のイメージが強い。しかし、芸能人とのつきあいは多くなく、仕事とプライベートを分けていたらしい。なかで親交のあった水谷豊さんは、おだやかな見かけの裏で、とくに演技に関しては、自分にも人にもきびしかったという。

   「ちょっとだらしないと、『そんなんでいいのかい』とか。間が違ったりすると、『さっきと違ってたね。どっちでやりたいんだい』とかいうんですよ」

   その藤岡さんは晩年こう言っていた。「役者になろうなんて、考えたこともなかった。演劇というものが大嫌いでね。人前で笑ってみせたり泣いてみせたりするのが、我慢ならなくてね」と。にもかかわらず、演技にこだわった裏に、若き日の挫折があった。

   「焼け跡で聞いた『ドリーム』というジャズから」音楽を目指す。が、結核での闘病生活が夢を砕いた。カメラマン、ラジオドラマのディレクター‥‥26歳でようやくたどり着いたのが役者という仕事だった。

   やがて、テレビドラマになくてはならない人になってからでも、「音楽がやりたい。楽器ができるんだったら、ミュージシャンになる。明日からでも」と言っていたのだった。そして、ある若いピアニストとの出会いが、晩年を一変させた。

   それが岸ミツアキさん。友人にもらったCDの演奏をきいて感動した。66歳のときだった。親交が始まったが、岸さんには有名俳優とのつきあいが重荷になっていく。ある日、それを切り出すと、藤岡さんは「私の名前についてくる人は多いが、初めて断られた。ジャズを語る友だちにと、あらためてお願いします」

   そうして本当の親交が始まった。岸さんはいま、「ボクが琢也さんのエネルギーになって、ボクも琢也さんにエネルギーをもらっていた。天からもらった自分の子どものような気がすると」という。水谷さんも「本当に幸せそうだった」と。

   岸さんは、藤岡さんが好きだったトランペッター、ウォーレン・バシェを呼んで、病室の枕元で思い出の曲「ドリーム」を演奏してもらった。「最高や」と喜んだ藤岡さんは2日後、意識をなくした。

   冒頭は、岸さんが伝えた藤岡さんの言葉だ。

   小倉智昭は「生き甲斐ってなに? 親友って、と考えてしまいますね」「ドリームは名曲ですよ。いい言葉だなぁ。申し訳ないけどこのピアニスト、知らなかった。聴いてみたいですね」

文   ヤンヤン| 似顔絵 池田マコト
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